横須賀線電車爆破事件

2015.10.01.Thu.00:23
1968年(昭和43年)6月16日(日)午後3時28分ころ、国鉄(現・JR)横須賀線の北鎌倉~大船間を走っていた上り電車の6両目5号車で爆発が起きた。
爆発が起こった5号車には約50人が乗っていた。大船駅の手前100メートルの踏み切りに、電車がさしかかる直前、後部左側ドア付近の網棚で爆発音が起こり、白い煙があがった。
この爆発により、車両の天井に張られた鉄板や合金板、座席7個、窓ガラス4枚が破壊された。乗客はこれらの破片や爆発物の鉄片を浴びて、バタバタと倒れた。
爆発物のあった網棚の真下にいた32歳の会社員は、他の負傷者と共に大船中央病院に運ばれたが、午後10時40分頃に脳挫滅で死亡した。
負傷者は28人いたが、その多くは、鋳物のような破片が体に食い込んでいた。55歳の会社社長は左胸の肉をそぎ取られ、53歳の妻は左手を切断しなければならないほどの重傷で、左股に2つの穴が生じた。
この日は日曜日ということもあって被害にあった乗客は鎌倉からの行楽帰りの人が多かった。

― 警察の執念、爆弾魔を追う ―
神奈川県警は、爆破のあった網棚の下の座席などから、紙箱の破片、赤いビニールテープ、単1の1.5ボルト乾電池4個、20センチほどのコード、タイムスイッチのゼンマイと歯車部分などを見つけた。
これらの状況から、時限装置をつけていたことは確実で、使用された爆発物はダイナマイトか、塩素酸カリと硫黄を混合した粉末系火薬と推定された。

6月17日、警察庁は神奈川県警の要請により、関東管区警察局、警視庁、兵庫、静岡、千葉、埼玉県警の捜査担当官と、科学警察爆発物専門官を大船署に集め、緊急会議を開き、広域捜査体制をとることを決め、広域重要「107号事件」に指定した。
ここまで大掛かりな捜査を行うには理由があった。この数年、交通機関などを狙った爆弾事件が、多発していたのだ。

「横須賀線電車爆破事件」のあった翌日の1968年(昭和43年)6月17日、現場検証で、時限装置を包んでいた新聞紙が、4月17日付朝刊『毎日新聞』多摩版と分かった。
この新聞は西多摩、南多摩郡、八王子、府中、立川、町田、日野市など十数万世帯に配達されている。
新聞の印刷は、輪転機のクセで活字にズレが生じる。この「印刷ズレ」の特徴から、多摩版でも、八王子、立川、日野方面に配られているものとまで分かった。

遺留品の乾電池はナショナル・ハイトップで、タイムスイッチは松下電工製でET63型と判った。
これらは最近、市販されたものということで、製造元の松下電器、松下電工から販売先の商店名簿を取り寄せ、東京都と神奈川県の電気店をひとつずつ調べることになった。

科学警察研究所の鑑定によれば、爆発に使用した火薬は、ニトロセルロースとニトログリセリンを主成分とするもので、日本では猟用散弾の発射薬として市販されていることが分かった。
この無煙火薬は、都道府県公安委員会から猟銃の所持許可を得た者なら、鉄砲火薬店で買える。

さらに、火薬を詰めていた鋳物の復元に成功した。これはガス、水道工事に用いる特殊な継ぎ手で、大阪府岸和田市の日本鋼管継手株式会社製と分かった。
大阪府警に販売ルートの捜査を依頼した。

6月19日、爆発装置を詰めていた箱の出所が分かる。
電車内に散っていたボール紙をつなぎ合わせてみると、裏側に<門前町二 みすゞ総本店>と木版のような印刷がされていた。
この店は、名古屋市中区門前町の菓子製造販売「みすゞ総本店」で、箱は鯱最中(しゃちもなか)、愛知県内のみで販売していることが分かった。
愛知県警に販売ルートの捜査を依頼した。

同時に目撃者探しも進めていたが、有力な情報はなかった。

6月23日、起爆用の乾電池ホルダーが、クラウン社製であることが分かった。このホルダーは、テープレコーダーに使用されており、7500台販売された。
さらに、「OKMI」という検査マークが付いていたが、これは500台~1000台しかないことが分かった。
これには「愛用者カード」が入っていて、郵送した場合、ボールペンが贈呈された。
クラウン社には、その住所と名前が登録してあった。
三多摩地区の鉄砲所持者は警視庁の調べでは6572人、このうち『毎日新聞』の購読者は460人だった。

8月~10月まで、延べ1万6000人の捜査員が動き、11月に入ると、有力容疑者が浮かび上がってきた。
大工の若松真紀(当時25歳/仮名)だった。

若松は猟銃所持許可を受け、水平二連散弾銃を持っている。そして新宿区のサトミ銃砲店でSS火薬250グラム、1968年3月に、立川市の三進小銃器営業所で、SS火薬250グラムを買っている。
1968年1月~6月まで『毎日新聞』を定期購読していた。また、前に住んでいた新宿区西落合2丁目のアパートで、タイムスイッチを使用していた。
鵠沼海岸で水道管に火薬を詰め、2回爆発させたことがある。当日のアリバイも曖昧。
そして決め手は隣家の夫婦が1967年10月24日に、新幹線名古屋駅売店で「鯱最中」を4箱買い、そのうち10個入りを新婚旅行みやげとして若松に渡していた。
11月9日午前7時、捜査本部は若松に任意出頭を求めた。若松は千代田区九段北のマンション工事現場の宿舎に寝ているところを起こされ、横浜の県警捜査本部に連行された。
初めのうちは否認していたが、午後1時半ごろから、ポツリポツリ自供を始めた。午後6時に、日本を震撼させた爆弾魔はついに逮捕された。
容疑は殺人、同未遂、船車覆没致死、電汽車顛覆、傷害、爆発物取締罰則違反。死刑は免れない。

取り調べに対して、若松はこう供述した。
「草加次郎を尊敬している。草加次郎は何度も爆発物をしかけて成功したが、捕まらなかった。自分は草加次郎を真似てやったが、捕まってしまった。捕まらなかった草加次郎は私よりもえらい。しかし、草加次郎の事件がなかったら、こんなことは考えつかなかったから、彼を憎いとも思っている」

※草加次郎…1962年から1963年に起きた爆破、脅迫、狙撃など一連の事件の犯人。本名は不明。草加次郎は脅迫文に記載されてあった名前。1978年9月5日に全ての事件で公訴時効が成立した。



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