栃木雑貨商一家殺害事件

2015.09.01.Tue.00:24
1953年3月17日、栃木県市羽村上赤羽(現・市貝町)で雑貨商の一家3人と使用人が惨殺されているのが見つかった。

亡くなったのは女主人Y子さん(49歳)、母親(71歳)、長男(21歳)、使用人(18歳)の4人で、いずれも両手両足を縛られ、絞殺されていた。



女主人と使用人には強姦された形跡があり、2種類の精液が検出された。部屋もかなり荒らされており、金品などが奪われていた。
被害者からは抵抗したあとが見られなかったことを含め、雑貨店の事情を良く知人による金目当ての犯行と見られた。
この雑貨屋は日用品などを扱う店であったが、商売は繁盛していたらしく、かなりの資産家であるという噂が地元ではあった。

事件後、庭に続く畑にはゴム長靴や革靴とおぼしき足跡があり、自転車のものより少し太いタイヤ痕もあった。

2ヵ月後、雑貨屋のすぐ近くに住む菊地正(当時27歳)が逮捕された。
菊地は村の青年団長をつとめ、捜査にも協力しており、なんと自宅は捜査員詰所になっていた。また事件前日に婚約もしていた。菊地は自供で「結婚費用と家の改築費欲しさでやった」と述べた。

逮捕につながったのは菊地が東京に住む8歳下の妹に渡した盗品の腕時計である。菊地は妹が村を離れていることで「バレるわけがない」と思っていたが、捜査員たちは執念で東京まで聞き込みに行った。
菊地の単独犯だという自供から、同時に取り調べていた村内の男性4人は釈放された。しかし地元では、「菊地が1人で罪をかぶった」という噂も根強くあった。
この背景には村内では菊地は好青年で評判も良く、被害者の評判が悪かったこともあるらしい。

― 菊地と母、そして事件 ―
菊地の母は菊地が2歳の時、酒乱癖のある夫と離婚し、3年後に菊地を連れて再婚した。新しい父親は妻や菊地にきつくあたった。その一方で菊地は異父妹らのことはとてもかわいがった。
そして母親思いのやさしい人間となった。
菊地が22、3歳のころに母親は白内障を患ったが、菊地は母親を自転車に乗せて町の眼科に毎日通っていた。
だが治療には金がかかり、当時の菊地にはどうすることもできなかった。父親に相談しても「失明ぐらい・・・」と叱り飛ばしたが、そのことに菊地は反発し、自分でなんとか医療費を工面しようと考えた。
それが強盗殺人につながっていく。前日に婚約をしたのは自分が疑われないためでもあったのだ。

事件当夜、菊地は午後11時ごろまで友人を呼んで遊んでいた。これはアリバイづくりのためで、10時ごろに帰りそうだった友人を引き止めて話し込んだ。
友人を見送った直後の11時半ごろ、自宅から300m離れた(と言っても、他に人家はなく、"隣家"となる)被害者の営む雑貨店に向かった。
顔には覆面をつけ、麻紐、バールを準備した。しかし、何か物音がするたびに隠れたりして、また決心もつかなかったこともあって、午前3時ごろまで家の前をうろうろしていた。

時間ばかりが過ぎ、決心がつかない菊地。
「今入らないと、夜が明けてしまう」
そう思った菊地は雨戸と障子を押し倒して一気に侵入。「金を出せ!」と大声を出したが、一家4人は怖がって誰も布団から顔を出さなかった。
菊地は自分の声を聞かれたことで、「正体に気づかれた」と思い、瞬時に全員を皆殺しにすることを決め、行動に移した。
菊地は村では真面目な人間として知られていたから、あえて残虐な犯行に見せかけようとした。何人かで荒らした形跡を作り、最後に2人の女性を屍姦した。
だが本来の目的であった金品については、あまり発見できず、婦人用の腕時計と2150円のみであった。

― 母に会うために… ―
1953年11月25日、東京地裁は菊地に死刑判決を下した。菊地は控訴をおこなうが翌年9月29日に棄却。
上告中のある日、菊地の人生を変える一通の手紙が届いた。それは異父兄からだった。
「お前のせいで母親がいじめられている」
母親は村八分にされていた。その事実を知った菊地は覚悟を決め、ある決断をする。そう脱獄という決断を…。

菊地は別の死刑囚を介して、兄からの差し入れの雑誌を受け取った。この雑誌の背表紙には金ノコが隠してあった。また脱獄に必要な縄となる布切れ、食料などを準備していた。
食料は拘置所内で購入できるパンだが、1人でいっぱい買うと怪しまれるので、他の死刑囚にわけてもらった。菊地は頭が良くどこまでも用意周到な男だったのだ。

55年5月11日深夜、出窓の鉄格子を切り菊地は脱獄した。菊地は布団に人が寝ているようなふくらみを残して逃げていたことで、脱獄が発覚するのは翌朝となった。
「御託の申し上げようもありませんが暫日の命を許して下さい」房にはメモが残されていた。
菊地は屋根をつたうように拘置所を出ると、小菅駅まで走り、東北本線に無賃乗車することができた。菊地の抜群の運動神経もあって、脱獄劇は成功に終わったのだ。

その後、兄と秘密連絡で打ち合わせておいた宇都宮の総合グラウンドまで歩き、兄と落ち合う。兄は一足先に家の様子を見に行ったところを警察に捕まり、今回の事件を白状した。
そして警察による山狩りが始まり、菊地は母を目の前にして市羽村の山中を逃げ回った。

脱獄11日目、菊地は母に会いたい気持ちを抑えきれず、家に戻る途中に逮捕された。
逮捕当時の菊地は食事もろくにしておらず、やつれた体でよろよろと歩いていたが、「頼む、ひと目でいいからおふくろに会わせてくれ」と刑事に土下座し、警察官と記者たちが見守る中、なんとか母親と対面をはたした。

「真、真、お前は生きていたのか」
母親の目はもう見えていない。しかし涙が浮かんでいた。
菊地は「おかあやん・・・」と泣くだけだった。

この脱獄により、所長が解任、管理部長など多くの刑務官が処分を受けた。

そして1955年6月28日、最高裁は菊地の上告を棄却。同年11月22日、宮城刑務所にて死刑が執行された。
首にロープをかけられた時、30を過ぎた菊地は子どものようにこう漏らしたという。
「おかあやん、おかあやん、助けてくれよ、おかあやん・・・・」
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コメント
いつも楽しく読ませていただいています。
これからも頑張ってください!

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