永山則夫連続射殺事件

2015.08.01.Sat.00:24
1968年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市において発生した、永山則夫による拳銃による連続射殺事件である。

警察は一連の事件を「警察庁広域重要指定108号事件」と命名している。
永山は横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだ拳銃により、社会への復讐のために短期間のうちに4人を射殺した。

第一の殺人事件
1968年10月11日、東京の東京プリンスホテルで綜合警備保障の27歳ガードマンに対し2発撃って射殺した。

第二の殺人事件
1968年10月14日、京都の八坂神社境内で69歳警備員に対し6発撃って射殺した。

第三の殺人事件
1968年10月26日、函館で31歳タクシー運転手に対し2発撃って射殺した。

第四の殺人事件
1968年11月5日、名古屋で22歳タクシー運転手に対し4発撃って射殺した。

1969年4月7日に永山は一連の犯行に使用した拳銃を持って予備校に金銭目的で侵入した所を、機械警備の警報で駆けつけた日本警備保障(現セコム)の警備員に発見されるが、発砲してガードマンがひるんだ隙に逃走。
しかし、警視庁が緊急配備を発令。数時間後、警戒中の代々木署のパトカーに発見され逮捕された。

永山は、犯行当時19歳の少年だったが、犯行累積の抑止と逮捕のために指名手配されたこともあり当初から実名報道がなされる。

10年を費やした1審の審議では、1979年に東京地方裁判所で死刑判決を受けたが、2審の東京高等裁判所では、心境の変化、家庭環境・生育状況が劣悪であった事、配偶者を得たことを酌量による減刑の理由として、犯行時未成年であったことからその更生を期して1981年に無期懲役に減刑された。
しかし検察側は上告し、最高裁は1983年に東京高裁の判決を破棄して東京高裁に審理を差し戻し、1987年の東京高裁(第二次)と1990年の最高裁(第二次)は「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、死刑判決が確定した。

― 永山の過去、そして未来 ―
永山は生育時に両親から育児を放棄され(ネグレクト)、両親の愛情を受けられなかった。
裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど精神的に荒廃していた。
その後、獄中結婚した妻やその他の多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方が次第に深まった。
その結果、反省・謝罪・贖罪の考えが深まり、最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪の境地に至った。
また5人分の命(被害者と自分)を背負って贖罪に生きることが償いになるのではないかといったやり取りが残されている。
2審のやり取りの中で、もし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている。
差し戻し審で無期懲役が難しくなると、一転して1審のような国家権力に対する発言に変わったが、関係者の話では1審のような迫力はなかったという。

また拘置所で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされている。
永山則夫は、1997年8月1日に東京拘置所において死刑を執行された。享年48。

死刑執行の署名をした法務大臣は松浦功。親族は遺骨の引取りを拒否し、弁護人の遠藤誠が引き取った。遺骨は本人の遺志でオホーツク海に散骨された。



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