東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

2014.11.30.Sun.12:25
1988年から1989年にかけて東京都北西部および埼玉県南西部で発生した、幼女を対象とした一連の事件。
警察庁公式名称は「警察庁広域重要指定117号事件」。これが昭和史末期でもっとも凄惨な事件「連続幼女誘拐殺人事件」である。

この事件は、4歳から7歳という低い年齢の4人の女児が被害者となった。そして新聞社に送られた犯行声明、遺族に被害者の遺骨が届けられる、など極めて異常な行動を犯人が取ったことから、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられた。

この「連続幼女誘拐殺人事件」の犯人は宮崎勤(当時26歳)。
1989年7月23日、宮崎が別のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、現行犯逮捕された。この後、宮崎によって語られた連続幼女誘拐殺人事件の真相は、再び日本を震撼させることになる。

第一の事件
1988年8月22日、埼玉県入間市の4歳の女児(以下KMちゃん)が誘拐・殺害される。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体をビデオ撮影している。
宮崎は逮捕後、ビデオ撮影をした動機について聞かれた際に「やはり二次元ではなく三次元の方がいい。感覚的に触れた感触がどうだろうかとか」と答えたが、第一次鑑定では「よく分かんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。

第二の事件
1988年10月3日、埼玉県飯能市の7歳の小学1年生の女児(以下YMちゃん)が誘拐・殺害される。
こちらはすぐさまイタズラをしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で、足がピクピク動いていたという宮崎の証言がある。
動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べ、やはり不明瞭。

第三の事件
1988年12月9日、埼玉県川越市の4歳の女児(以下NEちゃん)が誘拐・殺害される。NEちゃんは失禁した。
焦ったのか宮崎は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、NEちゃんの全裸死体発見。
12月20日NEちゃん宅に葉書が届く。「E(被害者の名前) のど かぜ せき 楽 死」と怪文書が記載されてあった。

1989年2月6日、第一事件の被害者KMちゃんの家族宅前に段ボール箱が置かれる。
中には、黒っぽい灰や泥、焼かれて炭化した木片、細かく砕かれ焼かれた人骨片や、インスタントカメラで撮影したピンク色半ズボン、パンツ、サンダルのカラー写真、自宅にあった辞書の中から拾い出した、「M(名前) 遺骨 焼 証明 鑑定」の5文字を自宅工場のコピー機で拡大したB5版の紙が入れてあった。

この惨劇と異常性はマスコミで大々的に報道された。

2月7日、埼玉県警「遺骨は、別人の可能性」と発表

2月10日、朝日新聞社に、第一事件の被害者KMちゃんに関しての、「今田勇子」名で犯行声明文が届く(今田勇子とは「今だから言う」という説もある)。
また、ローマ字にして、文字を並び替える(アナグラム)を行うと、『宮崎勤』の文字が出てくる。

2月11日、同内容の犯行声明がKMちゃん宅に届く。

3月1日、段ボールの遺体をKMちゃんと断定

3月11日、朝日新聞社とKMちゃん宅に、「今田勇子」の告白文が届く。この日は、KMちゃんの告別式だった。

暗号めいた書式と異常性のある文面でつづられた犯行声明文は、日本中を震撼させた。
警察は大規模な捜査網を引くが、第四の事件は今回の一連の誘拐事件の舞台である埼玉県西武とはまったく別の場所で発生することになる。

第四の事件
1989年6月6日、東京都江東区の5歳の女児(以下NAちゃん)が誘拐・殺害される。
宮崎は遺体の頭部、両手足を切断、歯を抜き、全裸の胴体部分を埼玉県飯能市の宮沢湖霊園の簡易公衆トイレ脇に捨てた。NAちゃんの首は、自宅近くの御嶽山の山中に捨てた。指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べ、ビニール袋に溜まった血を飲んだと供述している。

6月11日、NAちゃんの胴体部分の遺体を発見。頭、手足は切断され、周囲に血痕はなかった。胃の内容物から、NAちゃんと断定。

6月27日、宮崎はNAちゃんの首を持ち帰り、自宅の印刷工場の流し台で頭髪をむしって水洗いし、残っていた脳は、自宅前の秋川で洗い流した。そのあと頭蓋骨上部を、東京都奥多摩町梅沢の山林に、下アゴ部分を奥多摩湖畔の山林に捨てた。

― 覚めない夢 ―
1989年7月23日、八王子署が、宮崎勤(当時26歳)を、別件の強制わいせつ事件で逮捕。宮崎はすべての事件の供述をはじめる。
宮崎の自供どおり、都内西奥多摩郡奥多摩町の山中で、第四の事件の被害者NAちゃんの頭骨を発見。また第一の事件の被害者KMちゃんの遺体を自宅前で焼却と自供。
埼玉県警による宮崎宅の畑の捜索がされる。その結果、砂利の中から、焼かれた骨や歯牙など、若い骨、性別不明、人獣不明のものが見つかる。歯は4、5歳のものと20代の人間のものとが混じっていた。
そして最後に第二の事件の被害者YMちゃんの供述をする。YMちゃんの遺骨と衣類が、西多摩郡五日市町の小峰峠付近の山中で見つかる。この様子はマスコミでも報道され、宮崎の不気味な姿が映し出された。

宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために 74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。
2週間の調査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像を発見した。そのビデオは捜査員もとても正視できない衝撃シーンの連続だった。
そして1989年9月2日に起訴に踏み切り、後に宮崎の供述により遺体が発見されたため、一連の事件犯人として追起訴した。
公判でも、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」など、不可解かつ身勝手な発言を繰り返していた。

稀に見ぬ凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。
人々の宮崎への憎悪はそのまま彼の家族へと波及した。宮崎は両親の他に姉妹二人、兄弟二人がいたが、彼らに対して「お前達も死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が大量に殺到した。
宮崎家の長女は職を辞め、次女は結婚予定であったが自ら婚約を破棄した。二人の兄弟も、いずれも辞職した。背景にはマスコミで暴露された影響があったと言われる。
家族は宮崎の逮捕から一年後引っ越した。
1994年、父親は多摩川の高さ30mの橋から飛び降り自殺を遂げた。

― 死刑まで ―
1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下る。判決の朗読では冒頭で主文の死刑判決を言い渡された(通常、死刑判決では判決理由を朗読した上で主文を後回しにする)。
控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。
この自身の死刑確定について宮崎本人は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していたことが明らかになっている。

死刑確定後、手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。
これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。
また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いのほどを問われ「特に無い。いいことが出来て良かったと思う」と答えたことは遺族をはじめ世間から強い非難を浴びた。
事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

2008年6月17日、東京拘置所に於いて処刑。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期まで無いままであった。



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コメント
今となっては
4人の少女の初めの被害者以前、昭和62年9月15日子猫を抱えた小学2年生(当時8歳)の子が行方不明となり翌年の11月27日に白骨化した遺体となって発見されたが迷宮入りとなった。
これが宮崎勤の犯行かは不明だが宮崎勤が4人だけとも思えない。
もっと警察は生きてるうちに宮崎勤を取り調べて追求するべきだったよ。

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