あさま山荘事件

2015.02.01.Sun.00:27
1972年、真岡銃砲店襲撃事件で猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れて逃走を続けていた「連合赤軍」は、警察に追われていた。
警察の山狩りが開始され、外部からの援助等も絶たれ組織の疲弊が進んでいた。群馬県警の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込む。

装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまう。

「連合赤軍」の持っていた地図にはまだ記載されていなかったが、立てこもり先として軽井沢レイクニュータウンの浅間山荘が選ばれた。これは偶然だった。

2月19日の正午ごろ、「連合赤軍」のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人のS荘に侵入する。台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警機動隊一個分隊が近づいてきたことを察知し発砲する。

15時20分ごろ、「連合赤軍」のメンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、近所にあった浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。

当初は管理人の妻を人質として、警察に「連合赤軍」最高幹部の森恒夫と永田洋子の釈放と、浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画したが、断念し浅間山荘での籠城が決まった。

警察の突入に備え、山荘内に畳などを持ち込んでバリケードを築いた。

警察は、山荘には20日の食糧備蓄があり、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを管理人から聞き、兵糧攻めは無理と判断し、説得工作を開始する。

2月21日、「連合赤軍」はアジ演説も行なわず、電話にも出ず、警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。

犯人らは、人質を解放する案や夜中に山荘を脱出する案も考えたが、結局最後まで人質を取って籠城する方針は変わらなかった。

―鎮圧作戦―
警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦や、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。

また、「連合赤軍」メンバーの親族を呼び、説得を行った。親族の説得を聞いていた機動隊員らは涙を流したといわれる。

しかし、警察が親の情を利用する母親らによる説得は犯人にとっては逆効果となり、犯人は母親に対し発砲した。

長時間の検討の結果、クレーン車に吊った鉄球で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案される。

建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施を決定し、警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。

そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質がいる2階へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。

鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった。また強行突入を前に、山荘内のラジオなどで情報が漏洩することを防止するため、報道機関と報道協定を締結している。

次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈となった。

―事件の収束―
2月28日午前10時に警視庁第二機動隊、同第九機動隊、同特科車両隊及び、同第七機動隊レンジャー部隊を中心とした部隊が制圧作戦を開始した。

まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始する。直後に2枚重ねの対弾盾を持った二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始した。

それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲した。突入した部隊は築かれたバリケードを突破しつつ、犯人グループが立てこもる部屋に接近した。

作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長と二機隊長が犯人からの狙撃を頭部に受け、数時間後に殉職した。

さらに山荘内部で二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに、突入を図った隊員数名が被弾して後退する。

その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車の故障による鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。

途中、拳銃使用許可が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった。その後、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。

作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階の担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。放水の水が山荘中にかかったため、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の救出を決定した。

また、機動隊指揮官のヘルメットが目立ち、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。

作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の銃弾、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、金融機関強盗などで収奪した75万円の現金が残っていた。

この事件では、警視庁のT警部とN警視の2人、そして不用意に山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員とS放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。

―事件の長期化―
この事件では人質の無事救出が最重要目的となった。犯人を射殺した場合、「殉教者」として神格化されて他の集団に影響を与えることが考えられたため、犯人を射殺せず逮捕する方針であった。

犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、人質女性の安否すら警察当局は把握できなかった。

また山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと、頻繁に犯人が発砲してくること、警官の発砲が突入直前まで全く許されなかったことなどから情報収集は進まず、事件は長期化の様相を呈した。

発砲に関しては、「連合赤軍」が10日間で104発の発砲をしているのに対し、警察側はわずか16発の威嚇射撃のみであった。この他に「連合赤軍」側はパイプ爆弾1発を、警察側は発煙筒12発、催涙ガス弾1489発、放水148.9トンを使用している。

―鉄球作戦の失敗―
山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされる。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃口を壁ごと破壊するに留まった。

鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリー・ターミナルを蹴飛ばしたためというのが定説である。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きないのだ。

当時の警視庁第九機動の隊長は、鉄球作戦は失敗であったと回想している。

また、この故障について作戦に関わった土木会社の証言から、故障ではなくて車両そのものが問題だった事が明らかになっている。このクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を民間会社が使用していたものを、急遽操縦席に鉄板を取り付けるなど、防弾のための改造を施したものだった。

また、鉄球にしても専用の車両ではなく、単なるクレーンのケーブルに鉄球を取り付けた代物だったため、鉄球が止まったのは故障ではなく、もともと単発の使用でありあわせのものだった事を、鉄球作戦に車両を提供した関係者が明かしている。

―事件後の情勢―
浅間山荘事件での犯人逮捕で、「連合赤軍」は幹部全員が逮捕され、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件が発覚し、世間に衝撃を与えた。

逃走していた「連合赤軍」メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。

裁判では坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。

1993年2月19日、最高裁は坂口の上告を棄却し、1、2審同様、死刑の判決が下った。浅間山荘事件発生からちょうど21年経過していた。

国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。

―テレビ中継―
1972年2月28日に警察が浅間山荘に強行突入し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出したが、人質は無事保護され、立てこもり犯の「連合赤軍」メンバー5人(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)は全員逮捕された。

10日間にわたって立てこもった様子はテレビで生中継され、総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録した。

18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達している。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に渡って放送)は、平均50.8%の視聴率を記録した。これは2000年代に入った現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

また人質は219時間も監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。
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