藤本事件

2014.08.30.Sat.08:15
1951年8月1日、この日も暑苦しい夜であった。

熊本県水源村(現・菊池市)の藤木さん(当時50歳/仮名)方では戸を開けて眠っていた。
同日午前2時20分、そこへ何者かが2m半ほどの竹ざおの先にダイナマイトをむすびつけ、それを着火させて、縁側から蚊帳をめくって、藤木さんの枕元へ投げ入れ逃げ去った。
このダイナマイトの爆発により、藤木さんは全治7日、次男(当時4歳)が全治10日の軽傷を負った。

捜査当局はすぐに近くに住む藤本松夫(当時29歳)を参考人として呼び逮捕した。この逮捕は被害者・藤木さんの次のような証言によるものからだった。
「実は松夫はライ病で、それを私が県衛生部へ密告したといって、かねてから私は松夫に恨まれていました」

「ライ病」、現在では聞きなれないこの病気が今後の悲劇の大きなキーワードとなってくる…

この病気はそれまでは不治の病であったが、1943年に「プロミン」という薬が効くと報告されて以来、様々な薬が治療に用いられるようになり、現在では完全に治る病気であると知られている。
1943年というと、この事件が起こった頃より10年近く前だが、当時はまだまだ「不治の病、伝染病恐」というイメージが強かった。なぜならライ病の歴史自体、差別と偏見の歴史だったのである。

ライ病がここまで恐れられる理由。それは手足や顔面に変形が見られること、治らないと思われていたこと、感染しやすいと思われたこと、発症は遺伝によるものと考えられたことなどが挙げられる。
感染者は家族のもとから隔離され、また患者の出た家を消毒するなどした。施設に入れられた患者は以降、家に戻ることはできなかった。
この差別と偏見はその後も長きにわたり続き、この問題が解決されるのはなんと1990年代となる。
1996年、ようやく「らい予防法」が廃止され、「ライ病」という悲惨なイメージを解消するために、ハンセン病と呼ばれるようになった。
そしてライ病の長きに渡る差別の歴史は、次第に薄れていくことになった。

― 差別のない自由な世界へ ―
松夫は逮捕されて以来、ずっと否認を続けていたが、起訴される。
1952年6月9日、熊本地裁は懲役10年が言い渡された。判決要旨は次のようなものだった。

藤本松夫は小学校入学時、父と死別し、家計も貧しかったので、わずか1年終了後退学し、その後は熊本県菊池郡水源村の自宅において、弟妹の子守りと家事手伝い、13歳の頃には実母を助けて百姓仕事も1人前となり、農業に励んできた。
ところが1950年2月26日、突然村役場を通じて県衛生部から、ライ病のため翌年2月から国立療養所「菊池恵楓園」に収容する旨を伝えられた。
松夫はもう一度病名を確かめようと、収容が迫った1月15日、家出をして北九州方面の皮膚科の診断をうけてまわり、ライ病ではない旨の証明書など3通をもらいうけ、これで世間の疑惑をはらすことができると考え、2月10日頃に帰宅し、祝宴までして村の人達に報告した。
再び農作業に励み始めた松夫だったが、24日頃に、再び衛生部より「5月までに入園せよ」という通知を受け、再び悲嘆した。自分の病気を密告したのはかつて村役場の衛生係をしていた藤木さんであることを聞きこんだ松夫は、彼を深く恨むようになった。

この裁判は、ライ病のため療養所内の簡単な出張法廷によって行われた。
判決から7日後、松夫は昼食が済んでから30分間園内の代用留置所から開放された。
担当の看守と雑談しながらズボンを洗濯していた松夫は、洗い終わって物干しに行く時、看守が昼食を取りに行くのを目にした。その場所は裏門と10mも離れていない。
松夫は濡れたズボンをある程度乾し終え、周囲を見渡した。何も自分を縛るものがないとわかると、そのまま脱走した。

「罪のことよりも、病気の名が恐ろしい。私が死んでしまえば、世間の人達も、娘のことをライ病の父の娘といわなくなるだろう。とにかく娘に一目会ってから、心残りなく死のうと私は思ったのです」(後の松夫の証言)

だが松夫が脱走したという報せは、彼が家にたどり着くよりも早くに届いており、実家や親類の家にも捜査網が敷かれていた。
松夫は家に戻ることができず、山中を駆けずりまわった。そして10日、20日と過ぎていった。

そんな中で惨劇は起こった。

7月7日朝、水源村から熊本市隈府町へ通じる県道から、わずか60m離れた村道の林の中で、藤木さんの惨殺死体が発見された。
遺体は上半身に 26ヶ所の切刺傷があり、直接の死因は頚動脈切断による失血死だった。奪われていたものは、かねて藤木さんが持ち歩いていた護身用のステッキのみで、怨恨殺人に絞られた。
警察も、村の人達も、容疑者として思い浮かべるのは、脱走中の藤本松夫だった。

7月13日に村内のある農具小屋に寝ているところ発見された松夫は、逃げ出したが、警官の撃った4発の威嚇射撃のうち1発が右腕に貫通し、転倒したところを取り押さえられた。
村の人々が見守るなか、手錠をかけられた松夫に、母親と弟妹が駆け寄り、タオルで傷の応急手当をした。

1953年8月25日、熊本地裁・滝口甚八裁判長は、求刑通り死刑を言い渡す。この公判も療養所内の特設法廷で、5回開かれただけだった。
松夫の調書は担当官が割り箸を使ってめくり、証拠品は長い鉄のハサミでつまみ上げ、松夫が触った形跡のあるものは決して触れなかった。
弁護士が事件の証拠品調べに検察庁を訪れた時も、防疫のゴム手袋をはめた係が、おそるおそるつまんで出して見せたという。
それほどまでに感染への不安や、差別を受けることの怖さというのが、人々に染みついていた。

この公判で松夫が犯人であることを示す証拠品として、次の5点があげられた。
・血液反応のある刺身包丁
・A型の血痕のあるタオル
・同じA型血痕のあるズボン
・7月11日、発見
・松夫の12、3日の供述調書

血痕のついたタオルとズボンは、松夫が藤木 さん殺害の時に所持、または身につけていたものと検察側は主張した。だが、弁護側はこれらは松夫が警官に撃たれた時に着ていたもので、付着しているのは本人の血であると主張した。
藤木さんも松夫も同じA型であることが混乱をまねいた。検査も血液型を判別しただけで打ち切られたのである。

1954年12月29日、福岡高裁、控訴棄却。
1957年8月23日、最高裁、上告棄却。死刑が確定した。
やがて、この事件は松夫がライ病であったことから、予断と偏見によって充分な捜査・公判が行われず有罪にされたとして、救援活動が広がる。
証拠上の問題点を指摘した再審請求は1次、2次ともに棄却された。
3度目の再審請求棄却決定の翌日、1962年9月14日に松夫の死刑が執行された。

執行の直前、松夫は次のような手記をしたためていた。
「私は、再審願いが受理されて、無罪が証明されることを信じて疑わない
私のライは完治している
失われた十年の悲しみは返らないが、
私は青天自白の身となったら、故郷に帰って働くだろう
幸薄かった母の老先を幸せでうずめ娘の父であることを誇らしげに名乗ろう
そんな日の到来を疑わない
真実は暗闇に閉ざされてはならないのだから」



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