おせんころがし殺人事件

2014.09.02.Tue.09:23
1926年(大正15年=昭和元年)、栗田源蔵は秋田県雄勝(おがち)郡新成村(現・羽後町)の川猟師の三男として生まれた。
病弱な父親に代わって母親が出稼ぎに出ており、子供が12人もいる極貧の家庭であった。内気でおとなしい子供だった源蔵は、母親の愛情を全く受けずに育った。

ひどい夜尿症で、尿臭のため小学校ではイジメにあい、学校をさぼって1人で近くの山で遊ぶことが多かった。家計を助けるため小学校3年で中退して、農家に作男、子守りとして奉公に出されたが、いずれも寝小便を嫌われてクビになり、ひと月も待たずに勤め先は変わった。

1945年6月、19歳のときに弘前の歩兵連隊に入隊したが、未だに夜尿症が治らず、わずか2ヶ月で除隊となった。源蔵はいつまでも夜尿症が治らないことで次第に歪んだ性格を形成していくことになる。

終戦後、源蔵は北海道美唄炭鉱の坑夫になった。荒っぽい男たちとの共同生活や肉体労働によって、それまで内向的だった源蔵は粗暴で荒々しい性格に変わっていった。

1946年8月、窃盗、物価統制令違反および食糧管理法違反で懲役1年6ヶ月の実刑判決を受け服役する。

1年で仮出所した後の1948年2月、米や落花生のヤミ屋を生業としているときに、N子(当時17歳)と知り合い、やがて結婚まで誓い合う。ところが、N子の友人のY子(当時20歳)とも結婚の約束をしていたため三角関係に悩む。

―殺しの始まり―
ある日、静岡県駿東郡原町(現在の沼津市)の海岸で、N子から
「Y子をどこに隠したの、Y子とは別れて。」
と問い詰められる。

「好きなのはお前だけだよ。邪魔になったからY子は殺して、そこに埋めた。このことは黙っとけよ」
と源蔵は言った。

N子は驚き、
「警察に知らせなくちゃ」
と駆け出そうとしたので、
引き止めて
「お前を可愛がってやるからな」
となだめて性交した。

行為のあと、警察へ密告されることを恐れた源蔵は、N子を手ぬぐいで絞めて殺害した。念のため石で頭を数回殴り、死体はY子と同じように砂浜に穴を掘って埋めた。

その後、酒に酔って殴り合いをして殺人未遂、傷害で懲役2年の判決を受け服役し、1年で仮出所した。

1950年、窃盗罪で懲役10ヶ月の判決を受け服役。

1951年、仮出所した後、仙台、福島で泥棒を続けながら生活していた。

―強姦殺人―
8月8日、源蔵は栃木県の小山駅で途中下車した。昼間は盗んだ酒を飲み、いい気分になっていた。

日が暮れて盗みに入る家を物色していたが、ある家の窓から中を覗くと、蚊帳の中で乳児とその母親のF子(当時24歳)が寝ていた。その姿を見て欲情した源蔵は、ズボンを脱いで侵入した。

驚いたF子は「誰か来てえ」と叫んだが、源蔵は布団に押し倒し、布で首を絞めながらレイプし、そのまま絞殺した。

乳児は無事だった。タンスにあった着物や帯などをリュックに詰めると、源蔵は死体に布をかぶせて屍姦した。

そのあと勝手口に排便した。排便は、度胸をつけて自分を落ち着かせるための犯人の行動であり、当時の泥棒や殺人犯にはしばしば見られたらしい。

―通り魔殺人―
10月10日午後11時頃、自転車に乗って家を物色していた源蔵は、千葉県の上総興津駅の待合室で3人の子どもを連れた主婦のQ子(当時29歳)を見かけた。源蔵はこの女とやりたくなった。

そこで、「送ってあげよう」と優しい声で話しかけ、長男(当時5歳)を自分の自転車に乗せて押し歩き、Q子は背中に次女(当時2歳)を背負って長女(当時7歳)の手を引いた。真っ暗い道を5人は目的地に向かって歩いていった。

途中、源蔵は「いい体しているなあ」「俺にやらせろ」と何度も言い寄ったが、Q子は「こんなところではだめよ。家に帰ってからね」と適当にあしらいながら帰途を急いだ。

10月11日午前1時頃、安房郡興津町(現在の勝浦市)の「おせんころがし」にさしかかった。

「おせんころがし」とは太平洋の荒波が洗う急峻な断崖絶壁にある道で、一歩足を踏み外すと命を落とすという難所だった。昔「おせん」という娘が転がり落ちたことから、この名がついたと言われている。

源蔵は突然、怒りを爆発させた。
「頭にきた。やらせないなら、皆殺しにしてやる!」
自転車を止めてQ子に襲いかかると、子供たちが泣き出した。

「うるさい!」
大声で怒鳴った源蔵は長男を自転車から引きずり下ろし、石ころで頭をメッタ打ちにし、両手で抱え上げて、十数メートル下の海めがけて断崖から投げ落とした。
それから、母親にしがみついた長女の手を掴んで引きずり、頭や顔を殴って断崖から突き落とした。

「助けて、何でもするから!」
源蔵は腰をぬかしてへたり込んだQ子を草むらに押し倒してレイプし、布で首を絞めて、崖から投げ落とした。

最後に、寝ている次女の首を右手で絞めつけながら左手拳で殴り、崖下に投げ落とした。だが、崖の途中で転落していることに気づいた源蔵は、自転車用のランプを手に崖下に下りていき、3人をさらに石で殴打してとどめをさした。
長女だけは崖の茂みにじっと身を潜めていたため、探し出されずに助かった。

1952年1月13日夜、千葉県剣見川町の家に侵入する。
目を覚ました主婦のR子(当時24歳)が騒いだため、タオルで首を絞めて窒息死させた。一緒にいた叔母(当時63歳)も物音に気づいて騒いだため、出刃包丁で腹を刺して殺害した。そのあと、すでに死んでいたR子を屍姦した。

事件があったとき、源蔵は千葉県剣見川町の妹夫婦が暮らす家に寄宿していたが、1月13日に殺害した主婦の家に残された指紋によって源蔵の犯行と判り、1月17日、千葉県警に逮捕された。源蔵(当時26歳)は逮捕されるまでに、女6人、幼児2人の計8人を殺害していた。

―殺人鬼を裁く―
最後の千葉県剣見川町の事件のみ千葉地裁で、その他は宇都宮地裁で審理された。

1952年8月13日、千葉地裁で死刑判決が下り、
1953年12月21日、宇都宮地裁でも死刑の判決が下った。
1審で、2度の死刑判決を受けるという珍しいケースとなった。

源蔵はそれぞれの判決に対して控訴したが、急に動揺し始め、医務部で癇癪を起こして大暴れしたこともあった。

1954年10月21日、源蔵は控訴を取り下げたいと申し入れ、死刑が確定する。

源蔵は獄中で「懺悔録」という手記を書いた。その中で計11件の殺人を告白しているが、「おせんころがし」の事件は無実と主張している。

首を絞めてのセックスや屍姦は、9歳のとき近所の老人から「女と寝るときは叩いたり、絞めたりすると、とてもいいぞ」と教えられ、それを実行して喜ばせようとした、とも書いている。

12月、源蔵はこの「懺悔録」を売ろうとして、幾つかの新聞社や放送局、雑誌社に手紙を出し、弁護士や教誨師に依頼するが、売れるはずがないと諭され、あっさり諦めている。

1955年に入ると、源蔵は不安や不眠、吐き気がひどくなり、医務部通いの常連になった。特に夜は眠れず、医官の往診と睡眠薬の注射を求める回数が増えた。気分がすぐれないという理由で房内で何日も横になったままでいたかと思うと、大声を上げて壁を叩くなどの自傷行為に走り、収拾のつかない混乱と爆発を起こした。

―神にすがる―
2月、源蔵はプロテスタントの教誨を受けた。牧師に対し「おせんころがしでの事件で被害者となった女性が子どもを連れて泣いている夢を見るんです」と懺悔している。

7月22日、源蔵は千葉県小湊町の「おせんころがし」での殺人事件について再審請求を行なう。源蔵の書いた再審申立意見書によると、この事件の当日、秋田県N町の洋品店に忍び込んで、窃盗事件を起こしているからアリバイがあるという。

おせんころがしでの事件を自供したのは、宇都宮の刑事から「おせんころがしの件は君がやったことにしてくれ」と頼まれ、煙草や食料を差し入れされたからだという。だが、この再審請求は1ヶ月半後に棄却された。

10月12日、今度は千葉県剣見川町の殺人事件について再審請求を行った。その理由は、真犯人は妹の夫のSだということだった。

源蔵によると、SとSの友人をともなって盗みに入ったが、Sが近眼のため、物音に驚いて立ち上がった婆さんを包丁で刺してしまい、そのあと、Sとその友人が娘を強姦して殺したのだという。だが、11月にこの再審請求は棄却された。

―偽りの入信―
12月中頃、源蔵は洗礼を受けた。だが、「あの牧師は差入れが多いが、こっちの坊主は少ない」などと文句ばかり言っていた。源蔵にとっては差入れだけが目当てで、宗教はどうでもよかったのである。

1956年2月10日、源蔵は東京拘置所から死刑台のある宮城刑務所仙台拘置支所に移監される。当時の東京拘置所には死刑を執行する設備がまだなく、拘置所の死刑囚は仙台にある宮城刑務所仙台拘置支所に送られた。

その直後から源蔵は再審申立、抗告申立、即時抗告申立などを繰り返した。だが、いずれも棄却された。源蔵がそうしたのは申立をしている間は死刑が執行されないと弁護士に教えられたからだった。棄却の通知が来ると不安になり、慌てて申立をする。その繰り返しだった。

同年、死刑廃止か存続かをめぐって国会で死刑制度の是非について論議されたが、このとき、法務省が死刑を維持する理由として、「特殊な極悪人が世の中にはおり、淘汰する以外にない犯罪者がいるのだ」として、源蔵の名前が挙げられた。

―死の償い―
1957年3月、東京拘置所の精神科医官であり、作家でもあった男が、宮城刑務所の死刑確定者の調査に出かけた際に源蔵と会っている。

東京拘置所で狂暴だった源蔵は、ここで過ごした1年ですっかり痩せ、体重75キロの体格も全体的に骨張って、どことなくもの悲しげで声も低く、以前の元気がなくなっていた。

「東京拘置所にいるときは全く考えもしなかったが、ここにいると1ヶ月に1度ぐらいお迎えが来るんです。見ているととてもやりきれない。呼び出された男が強張った顔をして前を通って行くときは本当に辛いもんです。自分もいつかああなると思うと、とてもイヤです。ええ、自分は死ぬのは何でもない。ただ、自分が “無実の罪”で死刑になれば、母や妹が可哀相だから、何としても生きたい。先生、生きたいんです。助けてください。悪い夢が多いんですよ。胸の上に重たいモノがのってきて、もがいても体がちっとも動かない。必死になってもがくと小便をもらしているんです。」と泣いて訴えた。

1959年10月14日、死刑が執行された。源蔵33歳だった。
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コメント
ムカつく話し
殺された人はかなり怖かったでしょうよ自分が死ぬのは嫌だふざけんな女は気持ち悪い男のやるだけの相手ではないんだよ
自分の本能のままに生きてたんだな。恐ろしい人間がいるものだ
No title
人間より恐ろしい生き物はいませんね
こんな奴でも結婚したいだのなんだののたまう女がいたんだなぁ

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