マンソンファミリー

2014.09.02.Tue.20:06
チャールズ・ミルズ・マンソンは1934年11月12日に私生児として出生。

彼の母親は厳格なクリスチャンの家庭を飛び出し、売春で生計を立て、生まれたマンソンの面倒は見ないで、親戚の間をたらい回しにされていた。
母親がガソリンスタンド強盗で刑務所に入ると、叔父夫婦に引き取られたが、その叔父にも虐待され、小学校に女装して行かされ、いじめられる。10代の頃には刑務所にも入り、同性愛の看守によって性的な暴行を日夜受けている。

1955年5月、19歳で出所、炭鉱夫の娘と結婚して子供をもうけるが、売春組織の元締めをやって逮捕、7年の懲役となる。自動車泥棒に小切手偽造、クレジットカードの不正使用、その他諸々の罪で何度も服役する。

1967年仮釈放された時期はヒッピーが大流行していた。この時点で、既に人生の半分以上を塀の中で過ごしていた。

―ファミリー誕生―
仮出所後、図書館職員のメアリーのアパートに転がり込み、パトリシア、スーザンといった女たちを手なずけて「ファミリー」と称するグループを形成した。

ヒッピー全盛の時代を吟遊詩人としてアピールしようと街角や公園で歌い、家出少女などを仲間に引き入れ、黒く塗り直したバスでカリフォルニアを放浪した。反体制の気風に合流したのが、中流家庭出身のドロップアウト組だったことも特徴だった。

1968年には「マンソン・ファミリー」はほぼ完成し、この頃に親交があったのがビーチ・ボーイズのメンバー、デニス・ウィルソンである。太っ腹のデニスのおかげでデニス邸にファミリー共々入り浸り、テリー・メルチャーはじめ業界人とコネクションを作る。

デニスはファミリーの女の子をツアーに同行させたり、マンソンに資金援助したり、曲を合作したりした。

ファミリーはコミューンを形成するため、ロサンゼルス郊外のスパーン牧場に定住する。オーナー(当時80歳)は、ファミリーの女たちを自由に抱いていいという交換条件で農場に住むことを認めた。

既にスーザンとメアリーはマンソンの子を生んでいた。食料はスーパーの賞味期限切れの廃棄物を引き取ることで確保できていたが、現金が必要なときには、窃盗品を売りさばいていた。

1969年7月25日、ボビー・ボーソレイユ、スーザン、メアリーが音楽教師ヒンマンの元を訪れた。

ヒンマンはドラッグ密売人として「マンソン・ファミリー」とは浅からぬ仲だった。ヒンマンは2万ドルの遺産を家に隠しているという噂だった。

この頃マンソンは、ビートルズの曲から思想的啓示を強く感じ、『ホワイト・アルバム』の中にハルマゲトンに向けた予言を勝手に結びつけている。中でも『ヘルター・スケルター』という曲に妄想の根拠を結びつけ、大混乱がやってくるという予言を信じるようになる。

近い将来に黒人の急進過激派が白人を駆逐するために蜂起し、核戦争が起きて黒人が勝利する。しかし最後に大混乱を治めるのはデス・バレーの洞窟で生き残った「マンソン・ファミリー」というシナリオである。

―ファミリー暴走―
1969年7月25日、音楽教師で麻薬の売人でもあるヒンマンが2万ドルの遺産を相続したとの噂を聞いた「マンソン・ファミリー」はそれを目的に押し入ったのだ。

しかし2万ドルはどこにもなかった。

彼は自称“魔法の剣”でヒンマンを切りつけ、彼の耳をそいだ。その後も2万ドルの所在を自白させようとしたが、次の日に錯乱したボーソレイユがナイフで切りつけて、ヒンマンは死亡してしまった。ファミリーは壁に血文字を書き、ブラック・パンサーの犯行であように偽装した。

ヒンマン殺害の1週間後、彼の家から盗んだフィアットを運転していたボーソレイユが逮捕される。その2日後、メアリーも盗んだクレジットカードを所持していた容疑で逮捕された。

ロサンゼルス警察は、マンソン一味を要注意集団としてマークし始める。

デニスの口添えでレコーディングもするが、評価はさっぱりで、マンソンは苛立ちを募らせていった。

メルチャーの家に制裁のために乗り込むが、メルチャーは引っ越した後で、そこには新しい居住者のロマン・ポランスキー、シャロン・テート夫妻が住んでいた。

ターゲットは違ったが、計画は実行される。

1969年8月8日、マンソンの殺害指令を受けたワトソンは、まず電柱に上って電話線を切断した。それに呼応してファミリーが柵を乗り越えて邸内に侵入した。たまたま通りかかった管理人の知人に呼び止められた4人は、躊躇することなく彼の頭に鉛の玉を4発打ち込んだ。

屋敷に忍び寄ったワトソンは、子供部屋に改築中の部屋に侵入し、玄関を開けてスーザンとパトリシアを招き入れる。見張り役が一人外に残った。

居間にいたコーヒー王の跡取り娘アビゲイル・フォルジャー(当時25歳)の恋人であるフライコウスキーが人の気配で目を覚ました。

2階の寝室にはアビゲイル、主寝室のベッドの上にはポランスキー監督の妻シャロン・テートとハリウッドの有名なヘア・ドレッサーのジェイ・セブリングがいた。 シャロン・テートはポランスキーと結婚し、当時は妊娠9ケ月だった。

セブリングは不審者に立ち向かいワトソンから銃を奪い取ろうとしたが、一発の弾がセブリングの肺を貫通する。ワトソンは抵抗し続ける彼を、繰り返しナイフを振り下ろして黙らせた。

血だらけのセブリングの首をロープで縛って天井に吊るし、その紐をテートとアビゲイルの首にも巻きつけた。爪先立ちをしないと首が締まるように縛りつけた。

フライコウスキーはスーザンの手を振り払って、玄関から庭に逃げ出そうとしたが、追い掛けて来たスーザンに背後からナイフで突き刺される。 見張り役が制止しようとしたが、近づいてきたワトソンがフライコウスキーに向けて引き金を二度引いた。

それでも彼は死ななかった。仕方がないので銃把で頭を殴りつけて黙らせる。 ロープを解いて庭に飛び出したアビゲイルも2人に刺し殺される。

血なまぐさい居間に戻ったワトソンは、スーザンにテートの殺害を命じた。

「赤ちゃんが欲しいの、お願いだから殺さないで!」

泣きながら懇願した妊娠9ヶ月のテートに対し、スーザンは「見たかメスブタ!お前に慈悲などない!」と言い放ち、ナイフを11回振り下ろした。3人で合計16ケ所も滅多刺しにしている。

そしてその血をタオルに浸したスーザンは、居間のドアに「PIG」と書きなぐった。

―止まらない殺戮―
新聞に大きく報道された有名監督の妻の死亡記事を満足そうに読んだマンソンは、今度は自らが指揮に当たった。

次のターゲットはスーパーマーケットチェーンのオーナーの邸宅だった。

1969年8月9日、午前1時過ぎ、オーナーは居間に座り、新聞を読んでいた。気配を感じて目を上げると、目の前に見知らぬ小男が銃を手にして立っていた。

オーナーと妻を縛り上げると、マンソンは外の車に戻り、中にいるワトソン、パトリシア、レスリー・ヴァン・ホーテンの3人に殺害を命じた。

まず、ワトソンがオーナーの喉を切り裂き、歯がギザギザになっているキッチンナイフをその首に突き立てる。

次いで、パトリシアがオーナー夫人の背中をナイフで突き刺した。ヴァン・ホーテンもこれに加わり、二人で滅多刺しにした。彼女は41ケ所も刺されていた。

一方、オーナーはナイフで20ケ所、フォークで14ケ所も刺されていた。その腹部には「WAR」の文字が刻まれていた。

壁と冷蔵庫に血のメッセージを書きなぐると、ペットの犬に餌をやり、彼らも食事をとってから現場を後にした。

彼らを殺した後、ファミリーは牧場で身を潜めた。既にファミリーの数は30~40人ほどまで膨らんでいた。

8月16日、ロサンゼルス警察は農場の手入れが行なわれ、自動車窃盗の容疑で25人を逮捕する。だが、警察はテート、オーナー殺人とファミリーとの関係にはまだ気づいておらず、全員を釈放した。

10月12日、今度は銃器不法所持などの容疑でマンソンは逮捕された。警官が踏み込んだとき、マンソンは洗面台の下の小さなキャビネットに体を押しこんで隠れていた。

11月6日、スーザンが売春容疑で逮捕されたとき、留置所で同房者にテート殺害犯であることを自慢している。すぐに看守にタレ込まれて、実行犯が芋づる式に逮捕されたのである。

―刑の重さ―
1971年1月25日、これらの殺人事件に対する評決の発表の日は、裁判所周辺に厳戒態勢がしかれた。裁判開始から7ヶ月後、陪審はマンソンに第一級殺人と殺人の教唆で有罪の評決に達した。

マンソンをはじめとするファミリーの実行犯メンバーは、それぞれ死刑を宣告された。

1972年6月16日、判決の11ヵ月後に、カリフォルニア州で死刑が廃止されたため、死刑判決を受けたマンソンらは減刑され、終身刑となって現在も収監されている。

憎みつづけた社会によって命を救われたことは歴史の皮肉である。

マンソンはカリフォルニアの州刑務所にいる。3人の女性信者の1人であるスーザンは2009年9月24日に獄死した。
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