鈴弁殺し事件

2014.09.04.Thu.20:45
1919年(大正8年)6月6日午前9時頃、新潟県大河津村(現・長岡市)を流れる信濃川の岸辺に不審なトランクが流れついているのを牛乳配達人が発見した。

それは中型の赤皮で目立つトランクだった。配達人が近づいてみると、トランクは施錠されていなく、少しフタが開いており、覗きこむとむせ返るような悪臭がした。
そのトランクの中にあったおぞましいものを見てしまった配達人は、無我夢中で駐在所に駆け込んだ。

駆けつけた警官がそれを開けてみると、仰向けの状態の首と足のない男の胴体部分が詰め込まれていた。
隙間には古綿が詰められており、遺体の腹部と胸部には多量のナフタリンがかけられていたが、腐臭はすさまじいものだった。

新潟医学専門学校で行われた服部医学博士による解剖では、被害者は50歳くらい、労働をした形跡がないことから、労働者ではなく商人や勤め人。
遺体は死後10日くらいが経っており、死んですぐに首と足が切断されたわけではなく、死後硬直がとけた頃、1日か2日後に包丁のようなものと鋸を使って切断されたらしいことがわかった。
被害者の着衣は外国製のシャツに絹のズボンと、いずれも高級品であり、現場付近では容易に入手できないものだった。被害者が裕福層であることが推測された。
トランクには「A.K」の頭文字が刻印されていた。

その後、信濃川の下流で発見されたもうひとつのトランクから首と足が発見された。
現場付近では、地元の人達の犯人らしき人物の目撃談があった。
事件の3日前、近くの与板町に若い2人の男が川船で下ってきて、人力車で長岡市に向かったというのである。
一人は体格が良くパナマ帽に灰色の洋装の紳士風、もう一人は40歳くらいの和装の男。和装の男はどこか商人風だったという。

― 6月3日、2人の男の行動 ―
6月3日午前6時20分、長岡駅に降りた2人の男は2つのトランクを持っていた。
それはかなり重く、列車ボーイの腕力では持ち上げるのがやっとで、力自慢の人物が呼ばれ、駅前の俥夫待合所(人力車の待合場所)まで運んでいた。
その際、洋装の男は「中に壊れ物が入っているから気をつけろよ」と注意するように言った。

男達の乗る2台の人力車と、そして荷物を乗せた1台の人力車は、西長岡鉄道の駅前の旅館に着いた。
男達は列車の待ち合わせのためにそこで一服し、やがて和装の男が一人で長岡郵便局に向かって、「ブジツイタ」との電報を送った。送り先は浅草区千束町のある男宛だった。
郵便局から戻る途中、信濃川にかかる橋を通る時、男は俥夫に声をかけた。
「おい俥屋さん、川はどこが一番深いかね。流れが急なのはどのあたりだろうね」と。

人力車が駅前の旅館に戻ったのは午前9時半頃で、20分の列車には間に合わなかった。
しかし男達は気にする風でもなく、次の列車を待つことにして、酒を飲み始めた。そして何やら密談をしていた。
2人は昼飯なども食べ始め、次の電車にも乗らなかった。

やがて洋装の男が一人だけ人力車に乗り、向かったのは長岡市中島町にある船頭の家だった。
船頭の家にはかつて山田憲(やまだあきら 当時30歳)という農商務省技師が下宿していたことがあった。

船頭の家で応対したのは船頭の妻、それに妹の女2人であった。
洋装の男はまず山田の名を出し、自分は頼まれてやって来たということを告げた。そして西長岡駅前まで荷物を取りに行ってくれないかと切り出した。
2人は中央官庁の役人になっている山田のことを知っており、「あの山田さんの頼みなら」と快く了承し、近所で荷車を借りて駅前の旅館に向かった。

旅館では残っていたもう一人の和装の男が待っていた。そして山田から渡されたという手紙を読み上げた。
「このトランクを私の田舎の島中篠まで至急届けてくれ」という内容が書かれており、それ以外にも4月に亡くなった船頭の母親への悔やみと10円の香典も添えられていた。
船頭の家の人々は、山田に感謝し、荷車に荷物を積んで、男達と家に戻った。

午後5時頃、船頭が帰宅した。
洋装の男は船頭に「山田から田舎の島中篠まで届けて欲しいという荷物を預かってきたので、面倒でも船で運んで欲しい」と頼むと、船頭は気軽にこれを引き受けた。

2人の男と荷物を乗せると、船頭は船を漕ぎ出した。
川に見慣れぬ紳士と立派な荷物を載せた船が進んでいるのを周囲の人々も見ていた。
途中で男達は船を止めさせ、石を拾って麻紐で荷物に結びつけた。そして深みのある方へと船を進めるように指示した。
船頭もこの頃には不審に思ったが、彼らの言うことを聞くのみだった。

船が流れが急で6mの深さがあるという俗称「黒津淵」というポイントに来ると、2人の男は切り出してきた。
「実は荷物を島中篠まで運べというのは嘘だ。トランクには山田さんが中国に行った時、内緒で持ち帰ってきた爆弾、剣といった輸出禁止品が入っている。これを山田さんから頼まれて捨てにきたんだ。こんな物を捨てにきたことがわかると、山田さんがとがめられることになる」

2人は力を合わせ、重しのついたトランク2個を川に投げ込んだ。船を下りて、船頭と別れる時、洋装の男は5円札を手渡し、口外するなと念を押した。

― 山田と鈴木 ―
遺体を詰めたトランクは東京にいる官僚・山田憲のものだった。刻印されたイニシャルの「A.K」とも一致する。
山田は農商務省臨時外米部の唯一の外国米問題専門家だった。

それではバラバラになった凄惨な遺体はだれのものだったのだろう?
警察の調べで遺体は横浜市太田町の外国米輸入問屋・鈴木弁蔵(64歳)のものとわかった。

5月31日夕方、弁蔵は経営する鈴木商店深川支店での仕事を終え、横浜の自宅に戻る途中、忽然と姿を消していた。
店の人間の話によると、弁蔵には何か用事があり、品川駅で降りたことがわかった。
弁蔵は神奈川県城郷村の農家の三男として生まれた。17、8歳の頃から農業の合間に米の売買に手を出して、金を蓄え始めた。
20歳の時に横浜に出て米穀商に勤務すると、やがて2万円もの大金を貯めて独立した。米の売買の他に株や米相場にも手を出して莫大な利益を上げた。
米屋の小僧から身をおこして、一代で資産百万円(当時)の財産を築いた。商才があったのだろうが、義理も人情もないため同業者からはかげで「ズル弁」と呼ばれていたりもした。

エリート官僚である山田と資産家である鈴木はその後「米」というキーワードでつながることになる。

スピード解決と思われたが、当時はまだ警察と言えども、官僚に対して勝手に捜査したり、取り調べできないという制度があった。
このことで警察が根回しして、司法省からの申し入れにより、山田は休職の辞令を受けることになった。

6月9日、警視庁は山田を逮捕した。取り調べの担当者の上官は後の読売新聞社社長である正力松太郎氏であった。
また共犯として現場付近で目撃された洋装と和装の男であるW(当時27歳)と山田の親類S(当時38歳)も逮捕された。

山田は新潟県中ノ島村大字中篠に生まれている。父親は医者だったが、彼が幼い頃に亡くなっていた。
父親の兄弟は地元では裕福な地主で、山田の家にも充分な蓄えはあったから少年時代に特に貧乏をしたというわけではない。
山田は成績優秀で、金沢の第四高校から東大農学部の前身である駒場の農科大学に入ると、四校出身者のための塾をつくり、親分肌の性格である山田はこの頃から後輩のWをかわいがるようになった。
9番という優秀な成績で大学を出ると農商務省に入った。
ここまでは順調過ぎるくらいの人生であった。

― 人生の転落 ―
当時、米の買い占め、売り惜しみをする悪徳業者が横行しており、時の寺内内閣は1918年(大正7年)4月、外米輸入を政府で管理して米価を調整するために農商務省に外米管理部を設置した。その主任技師に任命されたのが山田だった。
外米管理部では財力、信用のある大商店を指定して、公定価格で外米の売買をさせ、またその際に手数料を与えたり、損失が出れば補償することにした。こうすることで米が多くの国民にいきわたるようにした。
政府にまず指定されたのは東京の三井物産、湯浅商店、大阪の岩井商店、神戸の鈴木商店であった。指定外米商の追加もあったが、新興であることなどから指定を受けられない業者もあった。
業者側としてはなんとしても指定を受ける必要があった。指定制度は贈収賄が生まれる一端にもなった。実際、この事件が起こった後、最初の指定外米商のいくつかが取り調べを受け、大手商店でも米穀部主任が贈賄罪で逮捕された。

山田の妻は静岡出身の漆間という代議士の娘であった。漆間と鈴木は旧知の間柄で、漆間を介して山田と鈴弁は出会う。
事件前年夏のことである。鈴木の方から山田に近づき、山田が外米調査のためにインドへ渡った時には自分の次男を同行させている。

やがて鈴木は山田に米相場に手を出させるようにし向けた。最初は儲かったが、それは鈴木の罠で、やがて損ばかりするようになっていく。
多額の借金を背負った山田に、鈴木はここぞとばかりに指定外米商にしてくれるように持ちかけた。
山田は「それなら15万円を用意してくれ」と言ったが、鈴木は承知しなかった。そこで「私が10万円つくるので、君は5万円だけ用意してくれ」とした。
5万円は目黒の料亭で山田に手渡された。山田は計15万円を「局長に届ける」と言ったが、最初からそんな気はなく借金の穴埋めに使ったあとは鈴木と顔を合わさないようになっていった。

だがいつになっても指定商になれない鈴木は、山田に返金を要求した。連日の催促に山田はどうすることもできなくなっていた。ここで鈴木を殺害することを決意する。
順調だった人生にも蹉跌の色が見え始めていた。

5月31日、山田は上大崎長者丸(現・品川区)の自宅に鈴木を呼んだ。鈴木はここで金を返せと迫ったが、山田は後輩のWと打ち合わせ通り鈴木をバットで殴り、首を絞めて殺害した。
さらに鋸などで遺体を切断し、トランク2個にわけて入れた。

山田は親類のSに、Wと一緒にトランクを新潟まで運ぶように依頼。WとSは託された手紙を持って船頭を訪ねた。
目撃された洋装の男がW、和装の方がSだった。
Sが長岡郵便局から電報を送った相手は、山田の異父兄にあたる人物であるが、彼は事情を知らされておらず、勤め先で受け取った電報は人違いではないかと思っていた。

― エリート官僚によるバラバラ殺人 ―
6月4日、WとSは上野駅に戻った。ここで山田と落ち合い、山田は遺体の始末が済んだことを聞いて安堵の表情を浮かべた。
Wの方は翌5日に青森に向かった。青森から鈴木弁蔵の名で横浜の家族に電報を送るという偽装工作をするためである。

山田らはイニシャル付きのトランクでも重しをつけておけば大丈夫と考えていたが、死体からガスが発生して浮き上がってきたのは彼らにとって想定外だった。
6月6日、信濃川で遺体発見されたことを知った山田は、昼頃に仕事場を抜け出し、警視庁に勤務している正力松太郎を訪ねた。
山田にとって正力は金沢の四高時代の先輩であった。
山田は「知人のWが鈴弁を殴り殺してしまい、信濃川に捨てたと相談してきた。自首させようと思う」というようなことを切り出し、正力もその話を信用したかのようにふるまったが、山田に疑惑の目を向けていた。

エリート官僚によるバラバラ殺人、当時は最先端のスポーツであった野球のバットが凶器に使われたことなどからこの事件は大変注目された。

公判で山田は鈴木殺害の理由についてこう語った。
「彼は暴利をむさぼる悪徳商人なので天誅を加えたのだ」

この言葉はでたらめであり、単に金のもつれから鈴木を殺したに過ぎない山田だが、世間は山田に好意的だった。
それは大正5年の米騒動の記憶などから、外米商というのは人の弱みにつけこんでボロ儲けをしているとして敵意が向けられていたからだった。
ケチな外米商が嫌われる一方で、「彼は犯罪をするような人ではなかった」という友人の談話が雑誌に掲載されるなど温情の目で見られたのが山田だった。

同年12月2日、東京地裁・円山卓爾裁判長は、山田に死刑、とWに懲役15年、とSに懲役1年半を言い渡した。
その2年後の1921年(大正10年)4月2日、市ヶ谷にて山田の死刑が執行された。

※一部被害者名は仮名にしてあります

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