杉並少年通り魔事件

2014.09.16.Tue.07:46
1963年3月14日、都立高校の合格発表の翌日であった。Yは、やってみたかった人斬りを実行する。以前から人通りの少ない処で年下の子供を斬りつけてやろうと考えていたのだ。
人が少ない場所ならば絶対にバレないと考え、相手は子供にした。女は可哀想だし、大人では自分が負けてしまうという単純な理由であった。

午後3時頃、Yは折りたたみナイフをポケットに入れて自転車に乗った。そして、すれちがいざまに被害者のA(10歳)に狙いをつけ、人気のない場所まで跡をつけ、後ろから近づいて被害者を突き飛ばした。すばやく自転車を止めて、所持のナイフで被害者の左顔面を切りつけ、そのまま自転車で自宅へ帰った。

―クセになる悪事―
1963年7月14日、午前7時頃、Yはあらかじめコマの紐とナイフを準備して、散歩のついでに子供を斬るつもりで自転車に乗って外出した。

近くの山で自転車を止め、昆虫採集の少年B(11歳)、C(14歳)の二人の両手をうしろ手に縛り合わせ、Bには猿ぐつわをして道路から見えない所に連れ込んで、上衣を脱がせ、ズボンのバンドで胸のあたりを叩いた。

それから陰部を切ろうとポケットからナイフを取り出したところ、Cが縛られた紐を解き、ナイフを持っていた手を押さえて「やめてくれ」と泣きつかれた。

Yは少年の顔を殴り、証拠を残さないように、縛った紐と猿ぐつわをしたハンカチを持って自転車で逃走した。

その後もYは、1964年10月10日までに東京都西北部で6歳から14歳までの少年の下腹部などを襲った。

13件の犯行のほとんどは、主に下腹部を斬りつけており、失敗した場合は顔や足に傷害を負わせている。下腹部を切りつけられた複数の被害者が性器を切断され、性器の全てを失うという異常な犯行もあった。

犯行を繰り返していた間、警察やマスコミに計13通の挑戦状を送っており、中には英文で書かれたものもあった。

―犯人の逮捕―
1964年12月26日、警察の聞き込み捜査でYの自宅をたずねた刑事が「息子さんの目つきが容疑者に似ている。モンタージュ写真を作りたいので協力してほしい」と告げ、Yを任意同行した。

別室では、犯人の顔を見た少年(14歳・第10の犯行の被害者)が係官にハッキリとしたロ調で
「確かにあの人そっくりだ。間違いないよ・・・」
と言い切った。

しかし被害者の証言だけでは、犯行を断定できない。Yは頑強に犯行を否認し続けているし、クロと断定するにはもっと確かな証拠が必要だった。

背後関係も犯罪とは結びつきにくかった。Yの家は閑静な住宅地にあり、父親は役付きの公務員。特に問題もない中流の家庭であったため、家族の者は息子を疑う気配がみえなかった。警視庁捜査一課の刑事は、被害者少年の証言を聞いてもまだ半信半疑だった。

しかし、2階の6畳間にあるYの勉強部屋の机の引出しから多くの動かぬ証拠品が発見された。Yの供述により、動機は猟奇的なもので、雑誌にあった男が女を切り付ける話に影響を受け、小学生の男児に同じことをやってみたかったということだった。犯行を続けた理由は、「斬りつけた瞬間にスーッとした快感を覚えた」ためであった。

Yは、11件の犯行を自供した。

―コンプレックスと挫折―
Yは、中学までは模範的な優等生という近寄りがたい存在だったが、高校に入学してからは背の低い孤独な人となってしまう。

勉強はもちろん、コンプレックスであった身長を伸ばす薬を通信販売で購入するなど、自分なりに努力したが、思うような結果を得られず挫折を味わっていた。何とか挫折から逃れようとしたのか、家では畳の上でもスリッパを履き、箸を使わずナイフとフォークで食べていた。

―判決―
1966年、東京地裁で少年には懲役3年以上4年以下の不定期刑が言い渡され、服役。

1969年に仮釈放されたが、その4ヵ月後から20件以上の放火・窃盗、及び中学3年生の少年を金槌で殴打して全治3週間の怪我を負わせた。

1970年8月5日に再逮捕。1972年に懲役13年の判決が言い渡された。

―父親の証言―
公判中に父親は
「息子のことは前の事件の際に、被害者の方々の謝罪のために非常に苦労した。有り金すべてのほかに、多額の借金をして被害者にお詫びをした。今度の事件では家も土地も手放して、被害者の方々にお詫びするほかない。こうした状況だけに、私としては息子にはもう一生刑務所から出てきてほしくない。もう一度刑務所から出てきても、息子の性格が直っている望みは持てない。私が裁判長にお願いしたいことは、息子に二度と刑務所から出てこないような判決を下してほしいことであります」
と証言している。


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