Japanese Red Army

2014.09.22.Mon.07:37
1969年1月に始まったT大学のY講堂占拠事件の収束以降、学園紛争は下火になっていった。多くの学生が運動を離れていくなかで、もっと別の方法で革命を考えるようになった暴力を伴う、強行的なグループが出てくる。
赤軍派もそうしたなかで誕生した党派の1つで、関西の学生を中心とした武闘派グループだった。結成直後、武器調達のために大阪と東京の警察署や派出所を襲撃する事件を起していたがいずれも失敗に終わっていた。

大菩薩峠事件の後、赤軍派中央政治局員7人のうち4人が逮捕され、議長・塩見孝也、軍事委員長・田宮高麿、高原浩之だけになり、しかも塩見と田宮にも逮捕状が出ていたため、アジトを転々としていた。

新たな政治局員として塩見は、三里塚闘争で黙々と拠点作りをしていた森恒夫の名を挙げた。田宮は「あんな度胸がない奴はだめだ」と反対したが、「森には理論がある」ということで一兵卒からやり直させることにする。森は敵前逃亡して行方をくらませたこともあったため、ビラ配りなど、下積みをして赤軍派に復帰する。

1969年11月12日、赤軍国際部長であった全共闘議長をアメリカとキューバに旅立たせた。

この頃アメリカでは、ブラックパンサーが白人社会での差別全廃をかかげ全員に武装体制を呼びかけ、ベトナム戦争の泥沼化にともない、アーリントン墓地を出発した反戦デモ隊が十数万人の大部隊となって反戦を訴えるなど社会情勢は不安定であった。

また、アラブではPFLP(パレスチナ解放人民戦線)が各地で政府軍と衝突し、フランスでは、ソルボンヌ大学に翻った一本の赤旗がドゴール体制を追い詰める運動に発展するなど火の手は世界中のアチコチで上がった。

このような状況下で、赤軍創設期の中央政治局員7人のうち、残っていたのはK大生・高原浩之だけだった。高原は、保釈で出所してきたD大卒の政治局員らの3人で今後の方針を話し合い、新たに4人の政治局員を登用し、政治局の立て直しを計った。

敵前逃亡から下積みを経て復帰した森恒夫を含む7人の新しい政治局員は、連日のように秘密アジトで話し合う。暫定的な執行部は、森が台頭していくようになる。

5月、実行部隊5人が選ばれ、自由主義国5ヶ国の大使館襲撃が検討される。公安当局はこの計画にはまったく気づいていなかった。

6月6日、1人で横浜に出かけた高原は、婚約者と鶴見区内のアジトで過ごす。7日朝、通勤者にまぎれて国電の駅へ向かっている高原は、神奈川県警公安一課の捜査員に、ハイジャックの共犯容疑で逮捕された。

捜査員は婚約者との密会場所があるという情報をつかんでから、1ヶ月以上アジトの張り込みを続けていたのだ。高原の所持していたカバンの中には、大使館襲撃作戦のすべてが書き込まれたノート数冊が入っていた。

森は、高原にリンチをかけると怒鳴った。しかし、これ以後も数名が逮捕され、メンバーもしばらくは組織に戻ろうとせず、森は"孤独な独裁者"の色を深めていく。

弱体化していく組織を危惧した森は兵士集めのオルグを開始させたが、京都に潜入している散らばっていた活動家を説き伏せることはできなかった。

この頃、一人一党的な活動家を導いていたのは、大学助手の「滝田修」こと竹本信弘(当時32歳)だった。竹本は「日本のファシズムや軍国主義の進行を阻止するには、正義の味方ではなく、暴力をもって"ならずもの"になることである」としてパルチザン(遊撃隊)の結成を提唱している。

この竹本信者の3人は、1972年5月、テルアビブ空港乱射事件を起こすことになる。

1971年2月28日、赤軍派中央委員の重信房子は、羽田発の日航機でパレスチナへ発った。

重信もまた、森恒夫体制に嫌気がさしていた。赤軍派は女性活動家を敬遠していた。もともと重信が幹部であり続けることができたのは、組織の資金源になっていたからで、重信が日本を脱出した後は、赤軍派は金融機関襲撃などの金集めに必死になった。

重信房子は、この時すでに入籍していて、「奥平房子」という名前だった。夫はK大全共闘の活動家・奥平剛士で、彼女より一足先にパレスチナに渡っていた。

パレスチナ救援のための渡航は表向きで、実際は武闘訓練をするために日本を出たのだ。重信の方はもはや赤軍派に未練はなかったらしく71年11月に「訣別書」を送っている。

―テルアビブ空港乱射事件―
1972年5月30日午後10時30分、イスラエル・テルアビブの空港税関カウンター前で、日本赤軍の3人がチェコ製Vz-58自動小銃を乱射、その後手榴弾を投げつけた。彼らは撃ち尽くすと、弾丸をつめ、出迎えの人や航空券を購入する客でにぎわう待合室や空港職員目掛けて乱射した。

わずか数分間の出来事だったが、イスラエルの科学者ら26人が死亡、73人が重軽傷を負った。チェックイン中のアメリカ国籍のプエルトルコ人乗客が犠牲となり、中には幼児もいた。空港は血の海と化した。

このとき空港を襲ったのは奥平剛士(27歳)、安田安之(26歳)、岡本公三(当時24歳)の3人で、パリ発のフランス航空機にローマ空港から乗りイスラエル入りし、入国手続きを済ませて玄関ホールに出ると、3人はベルトコンベア上の荷物を開けて銃器を取り出し、銃を乱射した。

奥平と安田は手榴弾で自決した。奥平はバラバラの肉片に、安田は頭部がない状態だった。

岡本は税関から空港内に飛び出し、イスラエル航空機に向けて小銃を乱射し、スカンジナビア航空機に2発の手榴弾を投げ、その上にかぶさり自殺を図るが不発に終わり、滑走路上に逃げたところを取り押さえられた。

同夜、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は、ユダヤ主義者への報復のため、組織の突撃隊が急襲と声明を発表した。

岡本はアラブ人の間で「アラブの星」と英雄視された。

自分たちが何者か特定されないように顔面を破壊して自殺するつもりであった岡本は「私の役目は終った。死なせて欲しい」と供述した。7月17日、イスラエル軍事法廷で、岡本に終身刑(8月1日確定)が言い渡され、ラムロ刑務所に収容された。

―ドバイ事件―
1973年7月21日午後11時55分頃、パリ発羽田行き日本航空ジャンボ機404便(乗客123名)が、アムステルダム空港を離陸直後、3、4人のパレスチナ・ゲリラにハイジャックされた。日本機が国外で乗っ取られたのは、これが初めてだった。

「我々は革命組織と戦闘隊員のためにハイジャックした。」

ハイジャック直後、そう演説したこのゲリラは「日本革命軍」を名乗り、国防相が直接交渉にあたったが、水と食料を要求するだけだった。

22日になっても、これといった要求はなく、「近づけば、飛行機を爆破する」という脅しのみだった。イスラエル政府は「岡本公三は絶対に引き渡さない」「脅迫に屈しないというイスラエルの態度に変わりはない」と発表する。

24日、説得にあたっていた日航社長、運輸政務次官が、乗客の身代わりになると申し入れた。現地の対策本部は、人質の生命を第一として、犯人側の要求をのむことを決定し、ハイジャック機の離陸を許可する。

リビアのベンガジ空港に着陸し、滑走路で待機中に、乗客たちは脱出シュートから飛び出し、走って逃げる。その直後、日航機は大爆発し、尾翼の一部を残しただけとなった。

リビア当局はメンバー4人を逮捕。そのなかには丸岡修も含まれていた。

―ハーグ事件―
1974年1月31日午前11時45分、和光晴生(当時26歳)と山田義昭(当時25歳)とパレスチナゲリラ2人が、「ベトナム革命戦争との連帯」作戦としてシンガポール・シェル精油所の石油タンク3基を爆破、フェリーポートの5人を人質にとった。

さらに2月6日午前10時、別のパレスチナ・ゲリラ5人が在クウェート日本大使館を占拠し、大使ら29人の人質と引き換えに、和光らを日航機で移送させ、南イエメンで合流し、投降している。

7月26日、パリ・オルリー空港で、偽造旅券4通と偽ドル所持の山田がフランス警察に逮捕される。その供述から、西ドイツ・ドュッセルドルフの大手商社支店長を誘拐し、身代金を奪おうとした計画が発覚する。

1974年9月13日、和光、奥平純三(当時25歳)、西川純(当時24歳)が「日本赤軍」を名乗り、オランダ・ハーグのフランス大使館に短銃武装で乱入し、大使ら11人の人質と交換にパリで勾留中の山田を奪還し、オランダから30万ドルと飛行機を出させ、19日にシリアで投降した。

ペラペラ喋る山田をそのまま勾留させておくと組織が壊滅しかねない、という危機感から実行された作戦だった。

―クアラルンプール事件―
1975年3月7日、スウェーデン・ストックホルムで、オーストラリア大使館を下見中の西川純と戸平和夫が偽造旅券行使などでスウェーデン警察に逮捕された。この時、1人は逃走したが、逮捕された2人は、3月13日に日本へ強制送還される。

同年8月4日午前11時、マレーシアのクアラルンプールにある米大使館、スウェーデン大使館が、日本人と見られるゲリラによって占拠された。彼等はアメリカ領事、スウェーデン臨時代理大使ら52人を人質をとって立て篭もった。

彼らは西川純(ハーグ事件)、戸平和夫(日本赤軍コマンド)、連合赤軍メンバー、連合赤軍幹部、赤軍派隊長、赤軍派隊員、東アジア反日武装戦線メンバーの7人の釈放と、日航機の派遣を要求する。

政府は午後5時ごろには「釈放する法的根拠がない。」としていたが、夜になると「これはもう検察の権限を超えている、内閣の決定事項、超法規的措置である。釈放命令があれば、人命に関わることなので拒否できない。」とし、釈放要求が来ている7人について、出国の意思を確認し始めた。

7人のうち赤軍派隊員と連合赤軍幹部は出国を拒否した。

5日午前0時20分、官房長官は記者会見で、飛行機を午前6時過ぎには出発できるようにすることと、出国の意思がある5人のことを犯人側に伝えたと発表した。政府の対応が早かったのは、犯人側が「要求を入れなければ、ステビンズ米領事を処刑する」と脅していたからだった。

5人を乗せた日航特別機は午後2時半に羽田を飛び立った。日本赤軍は人質15人を確保したまま空港に移り、まず人質を機内に入れ、その後出国してきたメンバーと交換した。

7日夕方、クアラルンプールを出発し、途中コロンボで給油をすませ、リビアのトリポリで高官4人を解放、ゲリラは投降後、自由に出国を許された。

ゲリラはほとんど覆面をとらなかったが、丸岡修(当時24歳)、和光晴生(当時27歳)、山田義明(当時26歳)、奥平純三(当時25歳)、日高敏彦(当時30歳)とされている。

同年7月、警察当局はICPO(国際刑事警察機構)に対し、国際手配を依頼。8月にICPOはリーダー・重信、奥平、和光、丸岡、吉村和江の5人を加盟120ヶ国に国際指名手配した。

1976年9月23日、奥平純三、日高敏彦がリビアから偽造旅券でヨルダンに入国しようとして逮捕された。日高は、取調べを受けていた10月2日、署内トイレで首吊り自殺している。

10月13日、強制送還された奥平純三は羽田空港で逮捕される。

―ダッカ事件―
1977同年9月27日、日本時間の午前10時45分、パリ発羽田行きの日航機472便(乗員14人、乗客142人)がインド・ボンベイ空港を離陸直後、日本赤軍のメンバー5人にハイジャックされ、午後2時31分、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられた。

メンバーは丸岡修、和光晴生、戸平和夫ら5人だった。

彼らは自分達のことを「ジャパニーズ・レッド・アーミー」と名乗った。

彼らは乗員乗客を人質に、身代金600万ドル(約16億2000万円)と服役中の赤軍派ら9人の釈放を要求し、要求に応じない場合は、まず米国人、次に乗員、乗客を処刑していく、特に乗客の1人だった「カーター大統領の友人」だという米銀行頭取を真っ先に殺すという声明を発表した。

日本政府は即座に「日航機ハイジャック対策本部」を設置して、対策を練る。検察当局は「安易な妥協はすべきでない」と反対したが、首相は「人の命は地球よりも重い」と、29日夜半に超法規的措置として要求を受け入れることを決めた。

ダッカ空港で身代金を支払い、奥平純三、東アジア反日武装戦線・狼メンバー1人、浴田由紀子(同・大地の牙)、城崎勉(赤軍派)、そして元々過激派ではない一般刑事犯2人を釈放する。

10月3日、日航機はダッカ空港を飛び立ち、その後クウェート空港、シリアのダマスカス空港で燃料補給し、人質を少しずつ解放、4日午前1時25分にアルジェリアのダル・エル・ベーダ空港で全員が釈放された。日本赤軍はハイジャック防止条約に加盟していない国を選んだのである。

最後までハイジャックに付き合わされた乗員乗客19人は、実に134時間も拘束された。人質の開放時に犯人は、出口付近で1人1人に「ご迷惑をかけて、申し訳ありません」と謝りながら握手した。

11月25日、参院でハイジャック防止法改正案が成立。それまで懲役7年だった罰則を、無期または7年以上とし、旅券法の権限を強化する。

ダッカ事件が起こった後、人質となり帰国した乗客に、レバノン・ベイルートからの手紙が送られてきた。

「日本人民、同志、友人の皆さん・・・・自らの不充分を克服し団結を目ざし、団結を武器として闘い抜くことを誓います。」

警察は筆跡と指紋から戸平のものと断定した。

―メンバーの逮捕―
ダッカ事件以降、日本赤軍はしばらく目立った事件を起こしていない。当時はすでに中心メンバーも歳をとっていたことも関係していたようだ。

1985年5月20日、終身刑の判決を受けラムロ刑務所に収容されていた岡本は、イスラエル兵とPFLP―GC(パレスチナ解放戦線総司令部)との捕虜交換の際に釈放、日本赤軍の元に戻った。

1986年2月25日、ハーグ事件により開放された山田(当時37歳)は帰国し、警視庁に出頭、逮捕された。シリアのダマスカスにいたらしいが、それ以後のゲリラ作戦には参加していない。取り調べに対し、「体力的にコマンドとしてやっていけなくなった」と述べたという。

1986年5月14日、インドネシア・ジャカルタのホテルから、カナダ、日本、米国大使館に向けて迫撃砲を発射される事件が起きる。

「反帝国主義国際旅団」(AIIB)の犯行声明が出されたが、現場となったホテルの部屋からはダッカ事件で奪還された日本赤軍メンバー・城崎勉(当時38歳)の指紋がみつかった。

AIIBは、PFLPによって国際テロ・キャンペーンのために86年頃組織された、PFLPと日本赤軍からなる数人のテロ組織と見られる。この組織は1月の東ベイルートでフランス系2銀行の爆破、9月の東ベイルートでのフランス武官暗殺などのテロ事件でも犯行声明を出し、フランスで捕まっている中東系テロリストの釈放を要求している。

1986年11月、M物産マニラ支店長が、フィリピン共産党の軍事組織「新人民軍(NPA)」によって誘拐されるという事件が起こったが、1991年に逮捕された犯人が、「日本赤軍の協力があった」という内容の供述をする。

1987年6月9日、ベネチアサミット開催中に、ローマ市内の米国、英国大使館にロケット砲攻撃される。この攻撃でもAIIBが「サミットの反テロリズムへの回答」と犯行声明を出したが、ローマ地検は12月3日、奥平純三(当時39歳)と城崎勉(当時39歳)の逮捕状をとり、国際手配する。

1987年11月、他人名義旅券で帰国した国際手配中の日本赤軍最高幹部・丸岡修(当時37歳)が、東京・箱崎のシティー・ターミナルに着いたところを逮捕される。丸岡は偽造旅券で日本や東南アジアなど8カ国を行き来しており、偽造旅券に名義貸しや入手を仲介した3人も逮捕された。

また丸岡は、香港滞在期間と、誘拐事件で香港から報道機関に送られた脅迫状の日時が近いことから、1986年1月にフィリピンで起きた支店長誘拐事件との関わりが疑われている。

丸岡逮捕により、ダッカ事件で出国した泉水が数年前からマニラに潜伏していたことも判明し、フィリピン女性と同棲していたアジトも発見された。押収されたメモによると、丸岡は日本赤軍の国際的支援・連携組織「アデフ」(ADEF=反戦民主戦線)づくりを計画していたらしい。

1988年4月12日、アメリカ・ニュージャージー州で、3本の消火器爆弾や爆薬などを車にのせていた菊村憂(当時35歳)が逮捕される。

菊村は86年5月にオランダ・スキポール空港で爆薬を持っていたため逮捕され、日本に強制送還されたが、その2日後、香港経由でベオグラードに渡ったことが確認されてから、行方が把握されていなかった。

菊村は大学を中退し、日本赤軍の正式なメンバーとは確認されていなかったが、6月のトロント・サミットに向けて準備中だったのではないかと見られる。

4月14日、イタリア・ナポリの米国軍人クラブで、前に停められた車が爆発。5人死亡する事件が発生した。奥平純三と重信が関与したとして国際指名手配された。

日本赤軍は「デッチあげだ」「関与していない」などという声明を出したが、爆破されたレンタカーの賃貸借契約書から奥平純三の指紋が検出された。

6月7日、マニラ首都圏に潜伏していた泉水(当時51歳)が、同国軍捜査班に不法滞在容疑で逮捕され、8日に日本へ移送された。泉水は額に植毛、目や唇の手術をして別人になりすましていたが、指紋で本人と確認された。

10月、東京地裁は、偽造旅券を使ってフランスに入国しようとした偽造有印公文書行使罪で懲役1年4ヶ月を山田に言い渡した。

1995年3月、日系ペルー人を装ってルーマニアに潜伏していた浴田由紀子が発見され、逮捕される。

1996年5月には、ペルーに潜伏中の吉村和江を発見し、6月8日に逮捕する。同年9月にはネパールにおいて城崎が逮捕される。

1997年2月15日、政府はレバノンに特使を派遣。国際手配中の岡本、和光、戸平、山本万里子ら5人を確認、身柄の引渡しを要求した。また同年、南米ボリビアで西川が身柄拘束され移送された。

こうしてメンバーは続々と逮捕され、壊滅への道をたどることになるが、それは同時に世界各国でメンバーが暗躍していたことを示していた。

1999年5月30日、レバノンの若者たちによって、ベイルート・シャティラ地区にあるパレスチナ人墓地に、奥平剛士と安田の墓が作られる。

2000年3月、5人の刑期が満了。レバノン政府はテルアビブ事件で「アラブの英雄」と呼ばれるなど国民からの人気が高い岡本の政治亡命だけを認め、他4人を国外退去処分とした。3月18日、4人は成田に着いたところを逮捕された。

―重信逮捕―
2000年11月8日午前、大阪府高槻市に潜伏していた最高指導者・重信房子(当時58歳)が、男2人とホテルから出てきたところを府警警備部に逮捕された。ナポリ事件などで国際手配されていた重信だが、逮捕はハーグ事件に関してのものだった。

高槻と言えば、70年代に赤軍派の拠点のあった街である。重信の写真は当時の最新のもので45歳頃のものだったが、唇の右上のホクロが特徴となっていた。化粧で隠していたのである。それでも内偵を続け、特有のタバコの吸い方から重信本人と突き止めていた。

警視庁に移送される途中、マスコミに笑顔で親指をたて手を振っている。当然と言えば当然なのだが、若かりし頃の綺麗な顔立ちの面影はなかった。

重信は偽造旅券から、97年以降、頻繁に中国の出入国を繰り返していたことがわかった。押収した資料からは91年に日本革命及び世界革命を目的とした「人民革命党」を設立していたことが判明した。

2001年5月1日、大阪地裁は重信を2年間にわたって匿っていた府立高校教師の男(当時45歳)と配管工の男(当時53歳)に対し、懲役1年6ヶ月、執行猶予5年を言い渡している。

2001年4月3日、重信の娘(当時28歳)が初めて祖国日本の地を踏んだ。重信は獄中から、28年間国籍がなかった娘の為に上申書を提出する。その上申書により、DNA鑑定の結果、娘の日本国籍が認められ、来日したのである。娘は予備校の講師をしながら、母親の支援活動を続けている。

重信は公判では「かつても今も、私はテロリストではない」と主張した。2005年10月の月の最終意見陳述では「パレスチナの解放の闘いに連帯したことを今も誇りにしていますが、当事者でない人々を戦闘に巻き込んで苦痛を与えてしまいました」と謝罪もしている。

2005年9月2日、論告求刑公判で、検察側は「首謀者として必要不可欠な役割を果たした責任は、共犯者のなかでも群を抜いて多い」と述べ、重信に無期懲役を求刑した。

2006年2月23日、東京地裁は懲役20年を言い渡した。

裁判長は「パリで逮捕された元メンバーを奪還するために日本赤軍が主導した事件で、国際テロの面も持つ。重信はPFLP側に武器調達を依頼するなど重要な役割を担った」とハーグ事件の関与も認定した。

重信は判決の後、ガッツポーズを見せ、傍聴席に向かって「がんばります」と声をかけた。

―国際テロリストの結末―
2002年3月30日、日本赤軍のテルアビブ事件に計画段階から関わった檜森孝雄(54歳)が、東京・千代田区の日比谷公園「かもめの噴水」広場で灯油をかぶり焼身自殺。

2005年1月25日、有印私文書偽造・同行使罪などで有罪判決を受け、執行猶予中の元メンバー・山本万里子(当時64歳)が、東京・板橋区のスーパーで、サキイカ2点(1200円分)を万引きして逮捕された。

山本は00年3月にレバノンから強制送還された1人で、奥平純三を出国させるため74年に他人名義で奥平容疑者の旅券を申請、交付させたとして逮捕された。

2007年3月30日、東京地裁は「独善的、反社会的な犯行でテロリズムによる法秩序への攻撃は断じて許されない」として、西川に求刑通り無期懲役を言い渡した。

西川の公判は1975年に始まっていたが、出国により中断されていたため、初公判から実に31年目の判決となった。

2007年4月18日、爆発物不法所持事件で米国で服役中だった菊村憂(当時54歳)が刑期を終えて出所する。

国外退去処分を受け、翌19日午後に成田空港に着いたところを警視庁公安部に偽の国際運転免許証を使用したとして逮捕される。

2007年5月9日、和光の控訴審で、東京高裁は無期懲役とした1審東京地裁判決を支持し、控訴を棄却。

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アカはバカ「関わっているし、犯罪は犯罪、」「共産国・走狗」とでも名乗っておけ。

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