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和歌山一家8人殺害事件

2014.10.04.Sat.11:40
1946年1月29日深夜に事件は起こった。

犯人のAは、1945年10月に復員し、空襲で焼け出され焼跡でバラック住まいをしていた兄一家宅に身を寄せていた。
その家で手斧とノミを用意して、実の兄(当時42歳)と兄嫁(当時41歳)の夫婦だけでなく、16歳と13歳と7歳と3歳の男児と、14歳と10歳の女児の子供まで、全部で8人の命を奪った。虐殺であった。

動機は、義姉が彼にとっての母の仇だったからである。

1940年、Aは、戦時中に志願して通信兵となり、中国戦線や北海道を転戦していた。出征先で和歌山県和歌山市で暮らしていた実母が死去した知らせを受け取る。

実母は、Aより15歳年長の兄一家と一緒に暮らしていたが、兄嫁から姑いじめを受け、虐待されていた。実兄の手前、事を荒立てることも出来ず、Aはその家庭環境から逃げ出す為に兵役についていたのだ。

Aは、実母は、義理の姉に虐待された上死んだのではないかという疑念をもった。

その直後にすぐに仇の兄嫁に対し復讐しようとしたが、証拠がなくまた叔父にもなだめられたため、踏みとどまった。母は不遇の身であったとAの恨みは募った。

1946年1月27日、夕食時に母が死んだ時の様子を真似た義姉は、母の死を嘲っているように見えたのだ。

彼の中に「実母が心臓麻痺で苦しんだ最期の形相を再現するなど、母に対する侮辱以外の何物でもない」という怒りがふつふつと湧いてきた。
子供まで殺した理由は、両親がいなくなれば不憫という理屈からである。

Aは「これは母の敵討ちだ、1ヶ月後に自首する」などと犯行理由の書置きをして逃亡した。1ヶ月してもAが出頭することは無かった。Aは長崎県内の炭鉱で偽名を使って働いていた。

しかし良心の呵責に耐えられなくなったとして、1948年3月19日に大阪市の大手新聞社の大阪本社に現れたところを逮捕された。

―判決は死刑―
1948年4月27日、Aの大量殺人に対し和歌山地方裁判所は死刑判決を下す。

1948年12月6日、控訴審は控訴を棄却する。異例のスピード判決である。A本人は上告しないと表明していたが、弁護人は最高裁まで上告した。

1949年8月18日、最高裁は「被告人の意思に反した上告は不適法」としてに棄却し、死刑が確定した。

―超恩赦―
1952年4月28日、Aは恩赦により無期懲役に減刑された。国会で1951年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約が承認を経て発効し、法務当局は「国家的慶事」として数多くの刑務所収容者を恩赦減刑したためだ。その中に12人の死刑囚も含まれていたが、Aもその中の一人であった。

Aは大量殺人犯であったが、殺人罪のみで死刑が確定した服役囚に限定するという恩赦の対象に含まれたのだ。そのため一人だけの殺害であっても脱獄のために刑務官を殺害したり、強盗殺人罪といった複数の罪状の死刑囚には恩赦はされなかった。

死刑囚で恩赦の対象になった殺人犯のAは、8人もの命を奪った重罪人であったが、たまたま国家の特典を受けることが出来たのである。

その後Aは、大阪拘置所の死刑囚監房から大阪刑務所に身柄を移され、刑務所に収監されてから約20年が過ぎた1968年の春に出所している。
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