アンドレイ・チカティロ

2014.10.17.Fri.11:42
1978年、ロストフ・ナ・ドヌー近くの炭鉱業専門学校に赴任してきたアンドレイ・チカティロ(当時42歳)は、近眼で痩せて、見た限りではおとなしく、あるいは人付き合いが苦手という印象の教師だった。
過去に、散歩中に生徒から襲われて怪我を負ったことがあったため、自己防衛のためにジャックナイフを携帯していた。

1963年、チカティロ(当時27歳)は、3歳年下の妹が紹介したフェーニャ・オドナチェヴァと結婚している。フェーニャが彼を気に入った理由は、ただ単に酒が飲めないという理由だった。

当時のロシアでは、夫の酒癖が悪かったりアルコール中毒であったりする場合が多いという背景があり、フェーニャの母も、夫の酒癖の悪さに悩まされていたのだ。

チカティロはフェーニャに対し
「結婚するまで、君の体を大事にしておきたい」
と言って肉体関係は避けていた。
1965年には娘、1969年には息子が生まれたが、彼にとって性交は重荷であった。

― 初めての恍惚 ―
1978年12月22日、既に40歳を過ぎていたチカティロは、自分の中にある幼い子供を犯したいという衝動を抑えきれず、路上を歩いていた9歳の少女を言葉巧みに連れ込んで、強姦しようとした。しかし挿入しようとしても勃起はしなかった。

少女は抵抗し、チカティロは少女の首を掴んで自分の全体重を掛け、気を失わせた上で少女に覆いかぶさり、行為に及ぼうとした。すると気を失っていたはずの少女が目を覚ましたことに驚き、パニックに陥った彼は、少女の性器をめった刺しにして殺害した。

チカティロは、息絶えた犠牲者の体を突き刺したり切り裂いている途中で射精してしまう。彼の中で、殺人によって性的興奮とオーガズムを得られることを学習する。

チカティロは、元来の気の弱さから、少女を殺して3年近くは殺人も強姦もせず、おとなしくしていた。
しかし学校の教師としての仕事はまったく評価されず、彼は勤務先の学校を解雇されてしまう。国営工場の中級幹部職員に転職して以降、彼の殺人履歴書は異常なペースで埋められていく。

1983年6月~9月前までに売春婦や女のホームレス、バス停や鉄道駅にいる家出した子供や若い浮浪者に声をかけ、森の近くに誘い込んで4人を殺害した。その内の3人は女子供であった。

派手に殺しまくったため、しばらくおとなしくしていたが、1988年、チカティロは殺人を再開する。主に自分が住んでいるロストフから遠く離れた地域で殺人している。

1990年の1月~11月の間に少年7人と女性2人を殺害している。ほとんどの犠牲者はめった刺しにされ、眼球をくり抜かれた。そして内臓や性器は食べるために切り取られ、その場で生のまま口にすることもあれば、持ち帰って調理することもあった。

この恐るべき食人鬼が12年もの間、野放しにされていたのには様々な理由があった。まず「連続殺人は資本主義特有の病理現象」とする共産党の宣伝がその一つとして挙げられ、連続殺人が理論的にあり得ない社会において、子供たちは大人に対する警戒心をまったく教えられていなかったのだ。

そして警察も連続殺人を想定していなかったため、連続殺人事件であることに気づいたのは、30人もの犠牲者が殺された後だったのである。

チカティロの職業である補給担当者という仕事は、物資を探し求めて移動するため、彼はその先々で犯行を繰り返すことができたのだ。また縦割り型の警察機構では、全貌を把握することは不可能だった。

更に、チカティロの特殊な体質も犯人特定を妨害した。1984年9月14日、挙動不審のチカティロが連行されたが、血液がA型だったため釈放された。一連の殺人事件の現場に残されていた精液はAB型だったのである。

― 終わりの始まり ―
1990年11月6日、セヴェタ・コロスチックという少女を殺害し、体を切断した。実質的に、これが最後の犠牲者である。

殺害後、返り血を顔に付着させたまま事件の現場付近を歩いていたチカティロが、警察官の目にとまり、連行して職務質問すると、犯行日時と彼の出張記録が完全に一致したため、第一級容疑者として民警およびKGBの監視下に置かれた。

1990年11月20日、今までに起こった類似する殺人事件との関連性が確かなものになったため、チカティロは遂に逮捕された。これはゴルバチョフ政権下におけるグラスノスチ(情報公開)政策と、警察機構の立て直しの賜物であった。

1992年4月14日、ロストフ地方裁判所にて半年におよぶ裁判が始まった。この裁判は、ソ連崩壊後のロシアのトップニュースとして国内外で大きな関心を集め、海外からも多くの報道陣が取材のため連日法廷へ詰め掛けた。

― 愉快な被告人 ―
出廷したチカティロはシラミ除けのために頭を完全に剃り上げ、モスクワオリンピックのロゴ入り開襟シャツを着て法廷に現れた。裁判では、法廷の中央で鉄の檻が設置され、チカティロはその中に入れられた。

裁判での彼は異常で、自分は同性愛者ではないと叫び、自分が今までに自白した殺人を否定するかと思えば、逆に犠牲者の数が少なすぎると言い出したり、ソ連当時の国歌を歌ったり、法廷に持ち込んだポルノ写真を高々と掲げたり、公判の最中にズボンを脱いで性器を露出させたり、自慰を始めたり、ウクライナ語の通訳を要求するなど好き放題の被告人であった。

挙句の果てに「俺は妊娠している」「あたしは女なのよ」「僕の脳はチェルノブイリの放射能に汚染されているんだ」などと支離滅裂なことを口走り、嘲笑を誘う陳述を何度か行っている。

1994年2月14日、チカティロは、判決を不服として上告したが、ロシア連邦大統領のボリス・エリツィンは、寛大な措置の請願をすべて拒絶した。
同日、ロストフの刑務所内にある防音措置を施された部屋に連れて行かれたチカティロは、銃殺刑によってその狂気の人生の幕を下ろした。57歳であった。


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