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オウム事件

2014.10.24.Fri.11:43
1955年、オウム真理教の教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、熊本県八代市に生まれた。生まれつき目が悪く、右0.3、左は失明状態だった。
小学校から高校まで熊本県立盲学校に学び、針灸師の資格を取得して上京、しばらくは針灸治療の仕事をし、結婚している。

その後漢方に興味を持ち、1978年~1980年には「漢方亜細亜堂薬局」、1981年には「BMA薬局」を開局していた。しかし亜細亜堂薬局時代には保険料の不正請求、BMA薬局時代にはニセ薬の販売で薬事法違反に問われ、略式起訴処分を受けている。

薬事法違反により薬局経営を断念した麻原は、漢方をあきらめヨーガに興味を持ち、1984年、東京都渋谷区に「オウム神仙の会」ヨーガ道場を設立している。

会の立ち上げの頃から会員であった一番弟子といわれる石井久子は、麻原の愛人として3人の女児を産んでいる。

オウム神仙の会では、ヨーガを追求していたが、やがて修行的な要素を帯びはじめる。会員と収入の増加を目論んだ麻原は、ヨーガを用いた修行を活動の中心とした宗教団体にすることを思い立ち、オウム神仙の会を名称変更しオウム真理教とした。

麻原は、最終解脱した、あるいは大物宗教家との交流もあると公言し、日本における仏教革命の最高責任者と自称していた。

―教団の先鋭化―
1989年、東京都知事より宗教法人の認可が下り、本部を静岡県富士宮市に移転して教団は急激に発展する。

この頃からマスコミにも取り上げられるようになり、修行のために出家を勧めることや、多額のお布施を強要し、教祖の生血や入浴後の残り湯を飲むなどの奇行が報道され、週刊誌での排斥キャンペーンが張られるほどになった。

社会問題として、出家したまま連絡が途絶えてしまった娘や息子を持つ親族は「オウム被害者の会」を結成し、教団に対する糾弾活動を行なう。

そのような状況で被害者の会の顧問弁護士をしていたS弁護士一家誘拐殺人事件が発生する。

S弁護士の家からはオウム信者の証「プルシャ」のバッジが発見され、教団との関係が疑われるが、警察はオウムに対して何らの手も打つことがなかった。

実質野放し状態の教団勢力は拡大の一途をたどり、宗教法人認可の翌年には政治にも進出を計る。麻原はじめ幹部数名は「真理党」を旗揚げし、1990年に総選挙に出馬したが結局一人も当選者を出すことはなく、麻原への求心力は弱体化する。

麻原は信者の統率と自分のカリスマを保つため、内憂外患の策として、選挙に落選したのは自分たちのせいではないと信者をいいくるめ、麻原は究極の真理実践法とする「ヴァジラヤーナの教え」を説法するようになる。真理のためなら殺人も良い行ないであるという教えである。

ここからオウムの進路は狂い始め、教団は武装化に偏向した。「全人類の救済」が目的だったオウム真理教は、犯罪シンジケートへと変貌する。

―大量殺戮兵器―
麻原は大量殺人による首都殲滅と国家転覆を計画したが、ボツリヌス菌の培養失敗、炭岨菌の培養も行ったが、炭岨菌を生きた状態で噴霧するには高度な技術がいるため、これも失敗している。

次に化学兵器の製造としてサリンが選ばれ、まずは実際に生成することに成功した。生成担当の化学班トップ土谷正実にサリン30キロの生成を命じた。

土谷は、山梨県上九一色村の教団施設でサリン製造施設を与えられ、30キロのサリンを製造したとされる。1994年6月、松本市の裁判官宿舎にむけて噴霧されたサリンは、ターゲットではなく無関係の一般市民を巻き込んだ。

しかしサリンの威力を確認した麻原は、土谷に日産2トンのサリン生成を命じ、そのための製造施設の建設を早川紀代秀に命じたとされる。

警察と公安当局は、オウムがサリン製造を行なっているとする物的証拠を徐々に集めつつあった。

―宗教犯罪史上最悪の事件―
麻原は1995年3月中旬、上九一色村の教団施設に強制捜査が入るとの情報を得た。1995年3月20日、捜査を妨害するためおよび警察と公安当局の捜査員を殺害することを幹部に命じ、地下鉄サリン事件をおこす。

警察と公安当局のある霞ヶ関を中心に朝の通勤ラッシュ時間帯を狙って地下鉄にサリンをばらまくという凶行に至った。警察が教団施設に踏みこむ2日前のことであった。

地下鉄という密閉空間とラッシュアワーで大量に人がいたため、松本よりもはるかに多い被害者を出してしまう。

これらサリンによる犯罪は、これまでにない毒ガスの大量散布という事件、また宗教法人がおこした非道な犯罪は過去に例がない。

地下鉄サリン事件の2日後、強制捜査は予定通り行なわれ、その結果主要幹部の逮捕が相次ぎ、一部幹部の自供とサティアンの捜査により教団が引き起こした数々の犯罪が明るみに出た。

事件の全貌を知られることを恐れた麻原は、証拠隠滅を図るための最後の悪あがきとして、裏切り行為をすると睨んだ村井秀夫を刺殺する。

麻原自身もサティアン内部の隠し部屋から発見、逮捕される。宗教法人の資格も剥奪されてしまう。

教団施設も1996年になって教団が破産宣告したことにより、解体された。法人格を失った教団は解散する。

オウム解散後は「アーレフ」という任意団体として存続している。アーレフの運営当初は、集団指導制が敷かれていたが、元オウム上級幹部・上祐史浩が出所後に代表に就任し、現在に至っている。
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